リゾートバイト(15)
「この土地に住む者は、みな〝臍の緒(へそのお)〟にまつわる言い伝えを深く信じておりました」
坊さんは切り出した。
「ここでは昔から漁を生業として生活する者が多くおりました。土地柄なのでしょう。漁師の家に子が生まれると、その子は物心がつく頃から親と共に海へ出るようになります。それがごく普通のしきたりのようでした」
防波堤に浮かぶ漁船が並んでいる光景を思い浮かべた。地元の子供なら、親の仕事を手伝ったり興味を持つのも自然なことのように思えた。
「漁は危険との隣り合わせであり、我が子の帰りを待つ母親の気持ちは、察するに余りあります。それは当事者にしか分からない複雑なものだったのでしょう。母親たちは、いつしか我が子に御守りとして〝臍の緒〟を持たせるようになったのです」
もう一度、箱を見る。いつの間にか蓋は閉じられていた。
「海での危険から命を守ってくれるようにと、そして行方の分からなくなった子供が、自分の元へと帰ってこれるようにと」
「帰ってくる?」
俺は思わず口を挟んだ。坊さんは気分を害することなく鷹揚に首を縦に振った。
「そうです。まだ体の小さな子などは、波にさらわれてしまうことも多かったと聞きます。行方の分からなくなった子は、何日もすると死亡したことと見なされます。しかし、突然我が子を失った母親は、その現実を受け入れることができず、何日も何日もその帰りを待ち続けることになるのです」
今度は口を挟まず、俺は黙って聞く姿勢を取った。
「そしていつからか、子に持たせる〝臍の緒〟には、生前に自分と子がつながっていたように、子がどこにいようとも自分の元へ帰ってこられるように、と命綱の役割としての意味を持つようになったと伝えられています」
皮肉な話だと思った。本来海の危険から身を守る御守りとしての役割を成すものが、いざ危険が起きたときの命綱としての意味を持つとは。
母親はどんな気持ちで子どもを海へ送り出していたんだろう、そんな事を思った。
「実際、〝臍の緒〟を持たせていた子が行方不明になれば、ほとんど無事に帰ってくることはなかったそうです」
しかし、と坊さんは言った。
「ある日、子が帰ってきたと涙を流して喜ぶ1人の母親が現れました。それを聞いた周囲の者は、その話を信用せずに、とうとう気が狂ってしまったのかと哀れみさえ抱いたそうです。なぜなら、その母親が海で子を失ったのは3年も前のことだったからです」
次はBが口を開いた。
「どこかに流れついて今まで生きてたとかじゃないんですか?」
「そうですね。始めはそう思った者もいたようです。そして母親に子供の姿を見せてほしいと言い出した者もいたそうなのです」
坊さんの語りは歴史の授業を彷彿とさせた。そしてBは熱心に授業を聞く生徒のようだった。
「それで?」
Bの催促を受けて、坊さんが話を再開させる。
「母親はこう答えました。もう少ししたら見せてあげられるから待っていて、と」
どういう意味だ、と思った。帰って来ているのなら、その場で見せるはずじゃないのか。
「もちろん、その話を聞いて村の者は不振に思ったそうですが、子を亡くしてからずっと気をなくしていた母親を見てきた手前、強く言うことができずに、そのまま引き下がるしかできなかったそうです」
昔話によくありそうな展開だ。それがどのような結末につながるかは、まだ全然分からない。
「次の日、同じような事を言って喜ぶ別の母親が現れました。そしてその母親も、子の姿を見せることはまだできない、という旨の話をするのです。さすがの村の者たちも困惑し始めます」
坊さんは間を空けずに語り続ける。
「前日の母親は既に夫が他界し、本当のところを確かめる術が無かったのですが、この別の母親には夫がおりました。そこで村の者たちは、この夫に真相を確かめるべく話を聞くことにしたそうです」
Bがつばを飲み込んだ。
「その夫曰く、そんな話は知らない、とのことでした。母親の喜びとは反対に、父親はその事実を全く知らないと言い張ったのです。それを村の者たちが更に追求しようとすると、人の家のことに首を突っ込むな、と怒りだし拒否したそうです」
俺は考え込む。確かに周りの人に家の中のことを詮索されたらいい気はしない。ただ、話の展開からして不自然だ。
「その後、何日かするとある村の者が、最初に子が戻ってきたと言い出した母親が、昨晩子どもを連れて海辺を歩く姿を見たと言い出します。日没だったため顔をはっきりと見たわけではないが、手を繋いで子に話しかける姿は、本当に幸せそうだったと」
俺は映画のワンシーンを想像した。たしか深夜にやっていた知らない映画を途中から観た記憶だ。
「この話を聞いた村の者たちは、これまでの非を詫びて子が戻ってきたことを祝福しようと、母親の家に訪ねに行くことにしたそうです」
坊さんは、俺たちが話の内容を飲み込めているのか、確認するように間を開けた。正直、俺は話の続きが気になって早くしてくれと思った。
「村の者たちが件の家に着くと、中から満面の笑みの母親が出迎えたそうです。村の者たちはその日来た理由を告げ、何人かは頭を下げて詫びたそうです。すると母親は、何も気にしていない。この子が戻って来た、それだけで幸せだ、と言います。そして、扉の影に隠れてしまっていた我が子の手を引き寄せ、皆の前に立たせたそうです」
俺は怖い妄想をしてしまうのが嫌で部屋の中を見回した。特に変化はない。寒気がしたのも気のせいだ。
「その瞬間、村の者たちはその場で凍りついたそうです」
Bが息を呑む。Aはずっと無言だ。
「その子の肌は、全身が青紫色で、そしてあり得ない程に膨らんでいたそうです。両の瞼も腫れ上がり、かろうじて開いた隙間から、左右別々の方向を向いた黒目が見えたそうです。そして口から何か泡のようなものを吹き、母親の話しかける声に奇声を返したそうです。その声は、まるでカラスの鳴き声のようだったといいます」
俺は嫌でも異形の絵面を思い浮かべた。坊さんはなおも続ける。
「村の者たちはぎょっとしました。子の奇声に優しく笑いかけ、髪の抜け落ちた頭を愛おしそうに撫でる母親の姿は、誰が見ても普通ではありません。恐怖でその場から逃げ出した人々は、その晩、村の長の家に集まり対応を考えなくてはなりませんでした」
蝋燭の火、それを囲う村人たち、深刻な顔、古い家屋の障子に揺れる影。様々な場面が勝手に頭の中で再生される。
「得体の知れないものを見た恐怖は誰一人収まらず、それを聞いた村の長は自分の手には負えないと判断し、皆を連れてある住職の元へ行くことにしました。その住職というのが、私のご先祖様に当たる人物らしいのですが――」
坊さんは一度深く息を吸い、そして吐いた。話が佳境に入る予兆だろうか。俺は心なしか身構えた。
「相談を受けた住職は、事の重大さを悟りすぐさま母親の元へ向かいます。そして母親の横に連れてこられた子を見るや、母親を引き離して寺に連れて行ったそうです」
その間、子は住職と母親の後をずっと追いかけてきて奇声を発していたのだとか。あまり想像したくない。
「寺に着くとまず結界を強く張った一室に母親を入れ、話を聞こうとします。しかし、子と引き離された母親は、まともに話せる状態ではなかったといいます。子供を返せと、ものすごい剣幕で怒鳴り散らす母親に、住職も強引な手段を使わざるおえませんでした」
「どうなったんですか」とAが聞いた。俺も同じ言葉を言いたかった。
「子を想う母は強い。住職が本気で押さえ込もうとしても、その力を跳ね除けて寺をそのまま飛び出して行ったそうです」
坊さんは少し寂しそうな表情をした。
「その後、村の者と従者を何人か連れて母親の家に行きましたが、そこに母と子の姿はなく、家の中には、どこのものかわからない札が至る所に貼り付けてあったそうです。そして部屋の片隅には腐敗した残飯が盛られ、異臭が立ち込めていたというのです」
俺の脳裏に、旅館の2階で見た光景が蘇った。
「そこに居た者は同じことを思いました。母親は子を失った悲しみから、ここで何かしらの儀を行っていたのだと。そして信じ難いことだが、その産物としてあのような異形が生まれたのだと。その想いを悟った村の者たちは、母親の行方を村一丸になって捜します」
坊さんの語りを聞いて、とめどなく想像上の映像が流れる。俺はこの話の結末を知りたくて仕方がなくなっていた。
「住職はすぐさま従者を連れ、もう一人の母親の家に向かいました。こちらも時すでに遅しの状態だったようです。得体の知れない異形に語りかける母親と、それに恐怖する父親。住職は、経を唱えながら果敢に異形へ近づこうとしますが、かえって子を守ろうとする母親を刺激してしまい、住職を追い払おうとします。しかも白目を向き、歯を剥き出しにして奇声を発したというのだから、もはや普通の状態ではありません」
俺はどこかでありえない話だと思いながら、心の一方では恐怖を感じていた。
「村の者は恐れ、一歩も近寄れなかったと言います。しかし住職とその従者は臆することなくその母親とその異形に近づき、興奮する母親を引き離して、寺へ連れてゆきます。暴れる母親を抱えながら、背後から追って来る異形に経を唱え、道に塩を盛りながら、少しずつ、少しずつ進んだそうです」
俺は次の言葉にはっとした。この話が自分たちと関係あるものだということを、もう一度突きつけられたみたいに。
「寺に着くと、住職は母親を〈おんどう〉へ連れて行きました。そして体を縛り、〈おんどう〉の中に閉じ込めたのです」
Aが哀れみの声を出した。俺は感情移入するよりも、自分との接点が怖くなった。
「仕方がなかったのです。親と子を離すのが先決だった、そうしなければ何も解決できなかったのです」
この話に出てくる〈おんどう〉が、昨日使った〈おんどう〉と同じものなのか。
俺はとにかく、それが知りたかった。