禁后(パンドラ)4
実は、この悪習はそれほど長く続きませんでした。
徐々にこの悪習に疑問を抱く世代が現れたのです。
その疑問がだんだんと大きくなり、次第に母娘として本来あるべき姿を模索するようになっていきます。
家系としてその姿勢が定着していくに伴い、悪習はだんだんと廃れていき、やがて禁じられるようになりました。
ただし忘れてはならない事として、隠し名と鏡台の習慣は残す事になりました。
隠し名は母親の証として、鏡台は祝いの贈り物として受け継いでいくようにしたのです。
少しずつ周囲の住民たちとも触れ合うようになり、夫婦となって家庭を築く者も増えていきました。
そしてしばらく月日が経ったある年、一人の女性が結婚し妻となりました。
八千代という女性です。
悪習が廃れた後の生まれである母の元で、ごく普通に育ってきた女性でした。
周囲の人からも可愛がられ平凡な人生を歩んでいましたが、良き相手を見つけ、長年の交際の末の結婚となったのです。
彼女は自分の家系について母から多少聞かされていたので知っていましたが、特に関心を持った事はありませんでした。
妻となって数年後には娘を出産、貴子と名付けます。
母から教わった通り隠し名も付け、鏡台も自分と同じものを揃えました。
そのまま幸せな日々が続くと思われていましたが、娘の貴子が十歳を迎える日に異変が起こりました。
その日、八千代は両親の元へ出かけており、家には貴子と夫だけでした。
用事を済ませて、夜になる前に八千代が家に戻ると、信じられない光景が広がっていました。
爪が何枚も剥がされ、何本か歯も抜かれた状態で貴子が死んでいたのです。
家の中を見渡すと、しまっておいたはずの貴子の隠し名を書いた紙が床に落ちており、剥がされた爪と抜かれた歯が貴子の鏡台に散らばっていました。
夫の姿はありませんでした。
何が起こったのか分からず、八千代は娘の体に泣きすがることしか出来ませんでした。
異変に気づいた近所の人たちがすぐに駆け付けたものの、八千代はただずっと貴子の体に泣き伏せていたようです。
状況が飲み込めなかった住民たちは、ひとまず八千代の両親に知らせる者と八千代の夫を探しに行く者とに別れて、家を出ていきました。
この時、八千代を一人にしてしまいました。
その晩のうちに、八千代は貴子の傍らで自害しました。
住民が八千代の状況を両親に知らせたところ、彼らは落ち着いた様子で受け入れました。
「想像はつく。八千代から聞いていた儀式を試そうとしたんだろう。八千代には詳しく話したことはないから、断片的な情報しか分からないはずだが、貴子が十になるまで待っていやがったな」
両親はそれから八千代の家に向かいました。
八千代の家に到着すると、さっきまで泣き崩れていた八千代も死んでいる――住民たちは愕然として言葉を失いました。
八千代の両親は終始落ち着いており、わしらが出てくるまで誰も入ってくるな、と言い置いて家の戸を閉めたそうです。
数時間ほどで、ようやく両親が出てきました。
「二人はわしらで供養する。夫は探さなくていい。理由は、今に分かる」
それを住民たちに告げ、強制的に解散させました。
それから数日間、夫の行方は分からないままでしたが、ほどなくして八千代の家の前で倒れているのが発見されました。夫の口には大量の長い髪の毛が含まれていたそうで、その時すでに死亡していたんだそうです。
どういう事かと住民が八千代の両親に尋ねると、今後あの家に入ったものはのようになる。そういう呪いをかけたのだからな。あの子らは悪習からやっと解き放たれた新しい時代の子なんだ。こうなってしまったのは残念だが、せめて静かに眠らせてやってくれ、と説明して、八千代の家をこのまま残していくように指示しました。
それ以来、二人に対する供養の意も込めて、八千代の家はそのまま残される事となりました。
家の中に何があるのかは誰も知りませんでしたが、八千代の両親の言葉を守り、誰も中を見ようとはしませんでした。
そうして、二人への供養の場所として長らく保存されてきたのです。
以上で終わりです。
最後に鏡台の引き出しに入っているものについてお話します。
空き家の鏡台は一階が八千代、二階が貴子のものになります。
八千代の鏡台には一段目に爪、二段目には歯、それと一緒に隠し名を書いた紙が収められています。
貴子の鏡台は、一段目、二段目ともに隠し名を書いた紙だけです。
八千代が「紫逅」、貴子が「禁后」です。
そして問題の三段目の引き出しですが、中に入っているのは手首だそうです。
八千代の鏡台には八千代の右手と貴子の左手、貴子の鏡台には貴子の右手と八千代の左手。それぞれ指を絡め合った状態で入っているのだそうです。
もちろん今現在、どんな状態になっているのかは分かりません。
D子は、それを見てしまったがために、異常をきたしてしまいました。
厳密に言うと、隠し名と合わせて見てしまったのがいけなかった、という事になります。
「紫逅」の文字は八千代の母が、「禁后」の文字は八千代が、実際にしたためたものであり、三段目の引き出しの内側にはそれぞれの読み方がびっしりと書かれているそうです。
空き家は今も残されていますが、現在の子供たちにはほとんど知られていないようです。
娯楽が多くなった時代では、たいして目につく存在ではないのかもしれません。
地域に関しては公にできませませんが、東日本ではない何処か、ということにしておきます。
D子のお母さんの手紙についてですが、これは控えさせていただきます。
D子とお母さんは、もう亡くなられていると聞きましたので、私の口からは何もお話することが出来ません。