リアル(5)

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「パン!」

その音で俺は跳び上がった。

正座してたから、体が倒れそうになりながら後に振り向いて、すぐ走り出した。

何か考えてた訳じゃなく、体が勝手に動いたんだよね。

でも慣れない正座のせいで、足が痺れてまともに走れないのよ。

痺れて足が縺れた事と、あんまりにも前を見てないせいで、頭から壁に突っ込んだが、ちっとも痛くなかった。

額から血がだらだら出てたのに、それだけテンパって周りが見えてなかったって事だな。

血が目に入って何も見えない。

手をブン回して出口を探した。けど、的外れの方ばっかり探してたみたい。

 

「まだいけません!」

 

いきなりS先生が大きい声を出した。

障子の向こうにいる両親や祖父母に言ったのか、俺に言ったのか分からなかった。

分からなかったが、その声は俺の動きを止めるには十分だった。

ビクってなってその場で硬直。またもや頭の中では、物凄い回転で事態を把握しようとしていた。

っつーか把握なんて出来る筈もなく、S先生の言うことに従っただけなんだけどね。

俺の動きが止まり、仏間に入ろうとする両親と祖父母の動きが止まった事を確認するかのように、少しの間を置いてからS先生が話し始めた。

 

「Tちゃんごめんなさいね。怖かったわね。もう大丈夫だからこっちに戻ってらっしゃい。Iさん、大丈夫ですからもう少し待ってて下さいね」

 

障子(襖だったかも)の向こうから、しきりに何か言ってのは聞こえてたけど、覚えてない。

血を拭いながらS先生の前に戻ると、手拭いを貸してくれた。お香なのかしんないけど、いい匂いがしたな。

ここに来てやっと、あの音はS先生が手を叩いた音だって気付いた(質問出来る余裕は無かったけど)。

 

「Tちゃん、見えたわね? 聞こえた?」

 

「見えました……どーして? って繰り返してました」

 

この時にはもう、S先生の顔はいつもの優しい顔になってたんだ。

俺も今度はゆっくりと、出来るだけ落ち着いて答える事だけに集中した。

まぁ、考えるのを諦めたんだけどね。

 

「そうね。どうして?って聞いてたわね。何だと思った?」

 

さっぱり分からなかった。考えようなんて思わなかったしね。

 

「……いや……うぅん……分かりません」

 

「Tちゃんはさっきの怖い?」

 

「怖い……です」

 

「何が怖いの?」

 

「いや、だって普通じゃないし。幽霊だし……」

 

ここらへんで、俺の脳は思考能力の限界を越えてたな。S先生が何を言いたいのかさっぱりだった。

 

「でも何もされてないわよねぇ?」

 

「いや、首から血が出たし、それに何かお札みたいなの捲ろうとしてたし。明らかに普通じゃないし……」

 

「そうよねぇ。でも、それ以外は無いわよねぇ」

 

「…………」

 

「難しいわねぇ」

 

「あの、よく分からなくて……すいません」

 

「いいのよ」

 

S先生は、俺にも分かるように話してくれた。諭すっていった方がいいかもしれない。

まず、アイツは幽霊とかお化けって呼ばれるもので間違いない。

じゃあ所謂悪霊ってヤツかって言うと、そう言いきっていいかS先生には難しいらしかった。

明らかにタチが悪い部類に入るらしいけど、S先生には悪意は感じられなかったって言っていた。

俺に起きた事は何なのかに対してはこう答えた。

 

「悪気は無くても強すぎるとこうなっちゃうのよ。あの人ずっと寂しかったのね。『話したい、触れたい、見て欲しい、気付いて気付いてー』って、ずっと思ってたのね」

 

「Tちゃんはね、分からないかもしれないけど、暖かいのよ。色んな人によく思われてて、それがきっと『いいな〜。優しそうだな〜』って思ったのね。だから、自分に気付いてくれた事が、嬉しくて仕方なかったんじゃないかしら」

 

「でもね、Tちゃんはあの人と比べると全然弱いのね。だから、近くに居るだけでも怖くなっちゃって、体が反応しちゃうのね」

 

S先生は、まるで子供に話すようにゆっくりと、難しい言葉を使わないように話してくれた。

俺はどうすればいいのか分からなくなったよ。

アイツは絶対に悪霊とかタチの悪いヤツだと決めつけてたから。

S先生にお祓いしてもらえばそれで終ると思ってたから。

それなのに、S先生がアイツを庇うように話してたから。

 

「さて、それじゃあ今度は何とかしないといけないわね。Tちゃん、時間かかりますけど、何とかしてあげますからね」

 

この一言には本当に救われたよ。あぁ、もういいんだ。終るんだって思った。やっと安心したんだ。

S先生に教えられたことを書きます。俺にとって一生忘れたくない言葉です。

 

「見た目が怖くても、自分が知らないものでも、自分と同じように苦しんでると思いなさい。救いの手を差し伸べてくれるのを待っていると思いなさい」

 

S先生はお経をあげ始めた。お祓いのためじゃ無く、アイツが成仏出来るように。

その晩、額は裂けてたし、よくよく見れば首の痕が大きく破けて痛かったけど、本当にぐっすり眠れた(お経終わってもキョドってた俺のために、笑いながらその日は泊めてくれた)。

 

翌日、朝早く起きたつもりが、S先生はすでに朝のお祈りを終らしてた。

 

「おはよう、Tちゃん。さ、顔洗って朝御飯食べてらっしゃい。食べ終わったら本山に向かいますからね」

 

関係者でも何でもないんで、あまり書くのはどうかと思うが少しだけ。

S先生が属している宗派は、前にも書いた通り教科書に載るくらい歴史があって、信者の方も修行されてる方も、日本全国にいらっしゃるのね。

教えは一緒なんだけど、地理的な問題から東と西それぞれに本山があるんだって。

俺が連れていってもらったのが西の本山。

本山に暫くお世話になって、自分が元々持っている徳(未だにどんなものか説明できないけど)を高める事と、アイツが少しでも早く成仏出来るように、本山で供養してあげられるためってS先生は言ってた。

その話を聞いて一番喜んだのが祖母。まだ信じられなそうだったのが親父。

最後は、俺が「もう大丈夫。行ってくる」って言ったから反対しなかったけど。

 

本山に着くと迎えの若い方が待っていて、S先生に丁寧に挨拶してた。

本堂の横奥にある小屋(小屋って呼ぶのが憚れるほど広くて立派だったが)で本山の方々にご挨拶。

ここでもS先生にはかなりの低姿勢だったな。

S先生、実は凄い人らしく、望めばかなりの地位にいても不思議じゃないんだって後から聞いた(「寂しいけど序列ができちゃうのね」ってS先生は言ってた)。

俺は本山に暫く厄介になり、まぁ客人扱いではあったけど、皆さんと同じような生活をした。

多分、S先生の言葉添えがあったからだろうな。

その中で、自分が本当に幸運なんだなって実感したよ。

もう四十年間ずっと蛇の怨霊に苦しめられている女性や、家族親族まで祟りで没落してしまって、身寄りが無くなってしまったけど、 家系を辿れば立派な士族の末裔の人とか。

俺なんかよりよっぽど辛い思いしてる人が、こんなにいるなんて知らなかったから。

厳しい生活の中にいたからなのか、場所がそうだからなのか、あるいはS先生の話があったからなのか、恐怖は大分薄れた(とは言うものの、ふと瞬間にアイツがそばに来てる気がしてかなり怯えたけど)。

 

本山に預けてもらって一ヶ月経った頃、S先生がいらっしゃった。

 

「あらあら、随分良くなったみたいね」

 

「えぇ、S先生のおかげですね」

 

「あれから見えたりした?」

 

「いや、一回も。多分成仏したかどっかにいったんじゃないですか? ここ、本山だし」

 

「そんな事ないわよ?」

 

顔がひきつった。

 

「あら、ごめんなさい。また怖くなっちゃうわよね。でもねTちゃん、ここには沢山の苦しんでる人がいるの。その人達を少しでも多く助けてあげるのが、私達の仕事なのよ」

 

多分だけど、S先生の言葉にはアイツも含まれてたんだと思う。

 

「Tちゃん、もう少しここにいて勉強しなさい。折角なんだから」

 

俺はS先生の言葉に従った。あの時の事がまだまだ尾を引いていて、まだここにいたいって思ってたからね。

それに、一日はあっという間なんだけど、何て言うか、時間がゆっくり流れてような感じが好きだったな(何か矛盾してるけどね)。

そんなこんなが続いて、結局三ヶ月も居座ってしまった。

その間S先生は、こっちには顔を出さなかった(二ヶ月前に来たきり)。

やっぱりS先生の言葉がないと不安だからね。

でも、哀しいかな、流石に三ヶ月もそれまで自分がいた騒々しい世界から隔離されると、物足りない気持ちが強くなってた。

 

実に二ヶ月ぶりにS先生がやって来て、やっと本山での生活は終りを迎えようとしていた。

身支度を整え、兎に角お世話になった皆さんに一人ずつ御礼を言い、S先生と帰ろうとしたんだ。

でも気付くと、横にいたはずのS先生がいない。

あれ? と思って振り向いたら、少し後にいたんだ。

歩くの速すぎたかな?って思って戻ったら、優しい顔で「Tちゃん、帰るのやめてここに居たら?」って言われた。

実はS先生に認められた気がして少し嬉しかった。

 

「いや、僕にはここの人達みたいには出来ないです。本当に皆さん凄いと思います。真似出来そうもないですよ」と照れながら答えた。

 

「そうじゃなくて、帰っちゃ駄目みたいなのよ」

 

「え?」

 

「だってまだ残ってるから」

 

また顔がひきつった。

結局、本山を降りる事が出来たのは、それから二ヶ月後だった。実に五ヶ月も居座ってしまった。

多分、こんなに長く、家族でも無い誰かに生活の面倒を見てもらう事は、この先ないだろう。

S先生から「多分もう大丈夫だと思うけど、しばらくの間は月に一度おいでなさい」と言われた。

アイツが消えたのか、それとも隠れてれのか、本当のところは分からないからだそうだ。

 

長かった本山の生活も終って、やっと日常に戻って来た。

借りてたアパートは母が退去手続きを済ましてくれていて、実家には俺の荷物が運び込まれてた。

アパートの部屋を開けた時、何かを燻したような臭いと、部屋の真ん中辺りの床に小さな虫が集まってたらしい。

怖すぎたらしく、その日はなにもしないで帰って来たんだってさ。

翌日、仕方無いんで、意を決してまた部屋を開けたら、臭いは残ってたけど虫は消えてたらしい。

母には申し訳ないが、俺が見なくて良かった。

 

実家に戻り、実に約半年ぶりくらいに携帯を見ると(そーいや、それまでは気にならなかったな)物凄い件数の着信とメールがあった。中でも一番多かったのが○○。

メールから、奴は奴なりに自分のせいでこんな事になったって自責の念があったらしく、謝罪とか、こうすればいいとか、こんな人が見つかったとか、まめに連絡が入ってた。

母から○○が家まで来た事も聞いた。

 

戻って二日目の夜、○○に電話を入れた。

電話口が騒がしい。○○は呂律が回らず何を言っているか分からなかった。

……コンパしてやがった。

とりあえず電話をきり、『殺すぞ』とメールを送っておいた。所詮世の中他人は他人だ。

 

翌日、○○から『謝りたいから時間くれないか?』とメールが来た。

電話じゃなかったのは、気まずかったからだろう。

夜になると、家まで○○が来た。

わざわざ遠いところまで来るくらいだ。相当後悔と反省をしていたのだろう(夜に出歩くのを俺が嫌ったからってのが、一番の理由である事は言うまでもない)。

玄関を開け○○を見るなり、二発ぶん殴ってやった。

一発は奴の自責の念を和らげるため、一発はコンパなんぞに行ってて俺を苛つかせた事への贖罪のめに。

言葉で許されるよりも、殴られた方がすっきりする事もあるしね。まぁ、二発目は俺の個人的な怒りだが。

○○に経緯を細かく話し、その晩は二人して興奮したり怖がったり、今思うと当たり前の日常だなぁ。

 

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