リゾートバイト(12)
その瞬間だった。
「Bくん」
俺は、なぜその声が聞こえたのか理解できなかった。
声の出どころは、〈おんどう〉の入り口の扉の近くだ。すると、また声が聞こえた。
「Bくん」
声の主は一瞬で分かった。今朝も聞いた、その声。
「Bくん、おにぎり作ってきたよ」
美咲ちゃんの声だった。
こちらの様子を伺うように、少し間を空けながら喋りかけてくる。抑揚が全くなく、機械のような声音だった。
Bの手にぐっと力がこもった。
「Bくん」
また美咲ちゃんの声。
しばらくの沈黙の後。
「Bくん、おにぎり作ってきたよ」
そして関を切ったように言葉が続いた。
「いらっしゃいませー」
「おにぎり作ってきたよ」
「Bくん」
「いらっしゃいませー」
「おにぎり作ってきたよ」
同じ言葉が何度も繰り返される。尋常じゃなかった。
美咲ちゃんの声のはずなのに、すごく恐かった。
坊さんは俺たちに、〈おんどう〉には誰も来ないと言っていた。それを思い返すまでもなく、扉の外にいるのは絶対に美咲ちゃんではない、と確信できた。
Aが俺たちの元へ戻ってきて、俺とBの腕を掴んだ。力んでいたため、Aにも美咲ちゃんの声が聞こえているんだということが分かった。
俺たちは、3人で〈おんどう〉の扉の方を見つめたまま動けなかった。その間も、壊れた機械のような声が繰り返される。
「いらっしゃいませー」「Bくん」「おにぎり作ってきたよ」「Bくん」「いらっしゃいませー」「おにぎり作ってきたよ」
そしてとうとう扉がガタガタと音を出して揺れ始めた。
おい、ちょっと待ってくれ、と俺は心の中で叫んだ。
扉の向こうにいる奴は物理的に干渉できるのか。俺は扉が開いたときにどうするかを咄嗟に考えた。
全速力で逃げる――坊さんたちは本堂にいるって言ってたからそこまで逃げて――本堂ってどこだ?
ここからどうやって逃げるかしか考えていなかった。
やがて外にいる何者かは、無機質は声で喋りながら扉に体当たりをするように派手な音を立て始めた。
そしてそのまま少しずつ、〈おんどう〉の壁に沿って左に移動し始めた。一定時間そうして、一時停止と移動を繰り返す。まるで意図を掴めない。
何をしてるんだ。
俺は不思議に思いつつ、偶然あることに気づいた。
俺たちの座っている場所の壁には隙間が開いている。そしてそいつは、今そこに向かってゆっくりと移動しているんだ。
もし隙間から中を覗かれたら、どうなる?
もしそいつの姿を見てしまったら、どうなる?
それを考えると居ても立ってもいられなくなり、俺は2人の手を引いて部屋の中央に移動した。
俺は恐怖で震えていた。歯がガチガチと鳴るほど震えていた。
心臓の音さえ消したかった。奴に存在を気づかれたくなかった。いや、もうすでに目をつけられているだろうとしても、相まみえる前に消えて欲しかった。
そして俺の願いは消えた。隙間のある壁に影が差し掛かった。見えた。月の光に照らされたそいつの顔を、今まで音だけでしか存在を感じられなかったそいつを。
真っ黒い顔に、細長い白目だけが浮かんでいた。
そして体当たりだと思っていたあの音は、そいつが頭を壁に打ちつけている音だった。
そいつの顔が一瞬、壁の隙間から消える。
外で勢いをつけるためにのけぞったのか、その後すぐに、ものすごい勢いで壁にぶち当たってきた。
壁にぶち当たる瞬間も、そいつは壊れた機械のように喋り続ける。虚無を言葉にしたような美咲ちゃんの声。
そのありえない光景に、俺はただただ目を奪われて動けないままだった。
しかし、そいつは俺たちを狙っているわけではないのか、隙間の場所でしばらく頭を打ちつけた後、さらにまた左へと移動し、同じ行為を繰り返した。
しばらくの間、俺は呆然としていた。現実の光景と残像に残る映像が混在する中で、自分がどこにいるのか分からなくなっていた。
正直なところ、それがどれくらい続いたのか分からない。俺は嵐が過ぎ去るのを待つように怯えるしかなかった。
そいつがいなくなってから、静まりかえった後も、俺たちはしばらく固まっていた。
Aは警戒を崩さなかった。Bは恐怖で強張っていた。そしでAが俺を腕を引いて再び光の下へ連れていこうとした時、体が硬直して動かなかった。Aの顔が一瞬死人を見つけた時のような表情になった。あまりの恐怖で心臓が停止したんじゃないかと錯覚したのかもしれない。
Bは恐怖で歯を食いしばりすぎて、歯茎から血を流してた。やっぱりBの目にも、あいつの姿は見えていたんだろう。
Aだけは、気を確かに持っていた。やはりAだけにはあいつの姿は見えていなかったのだろうか。
後から聞いた話だと、Aはあいつが遠ざかる祭に「あ゛ぁぁぁ、あ゛ぁぁぁ」という奇声を発していたと言った。
その声は、Aだけが聞いたらしい。
そしてBは、催したものをそのまま垂れ流していた。あの状況でなら、誰だって仕方がないと言える。
もちろん、その時の俺はそれに気づく余裕はなかった。