リゾートバイト(5)
翌朝、急に携帯のアラームが鳴った。
いつも俺たちが起きる時間だ。当然、安らかな睡眠などしていない。
Bの体がビクンと反応した。Bは今回の件で相当怯えているようだった。
実は、Bの根は優しい。俺はそれを知っている。Bは前の晩にこう話した。
「ごめんな。俺なんかよりお前のほうが全然怖い思いしたよな。それなのに俺がこんなんでごめん。助けに行かなくて本当ごめん」
その言葉を聞いて俺は目頭を熱くした。
でも、よく考えてみると「俺なんかより」ってどういうことだろう。
実際に恐怖の体験をしたのは俺だし、AもBも下から眺めていただけだ。もしかして、俺が階段を駆け下りた時になにかしたのか。
普通に考えれば、俺の体験談を聞いて恐ろしかったってことか。
よくわからない。俺も変わった経験をしたせいで、相手の言葉に過敏になりすぎているだけかもしれない。
こんな時だからこそ、早く帰ってみんなで残りの夏休みを楽しく過ごそう、と考えるようにした。
でも、その後のBの怯えようは半端じゃなかった。今朝もそれは治っていない。
俺たちが音を立てると、一つ一つに反応するようになり、俺の足の傷を食い入るようにじっと見つめたり、明らかに様子がおかしかった。
Aも普段と違うBを見て、少しびびりながらも心配そうにしていた。
「おい、大丈夫か? 寝てないから頭おかしくなってんのか?」
上体を起こしたBの肩をAが揺すった。
すると、Bは急に「うるさいっ!」と叫んで、Aの手を振り払った。
Aは突然の出来事に沈黙した。
「おい、どうしたんだよ」と俺は強めの口調で咎めた。
Bは挙動不審のように目をきょろきょろさせて俺を見た。
「大丈夫かだって? 大丈夫なわけねえだろ。俺もお前も死ぬような思いしてんだよ。なんにもわかってねえくせに心配したふりすんな!」
Bがわめくのを見て、俺は困惑した。正直、何を言ってるんだろうと思った。
Bの言う「死ぬ思い」ってなんだ。俺の話を聞いて恐怖してたわけじゃないのか。
AとBは仲間内でも特に仲が良かったが、その関係もAがBをいじる感じで、どんな悪ふざけにもBは本気にならず調子を合わせていた。
だからBがAに声を荒げる場面なんか見たことなかったし、もちろん当の本人もそんな反応をされるとは思わないはずだ。
そのせいか、Aは見たこともないくらいに動揺していた。
俺は疑問に思ったことをBに問いかけた。
「死ぬ思いってなに? お前はずっと下にいただろ?」
「いたよ。ずっと下から見てた」とBは答えた。
そして少し黙ってから下を向いて言った。
「今も見てる」
俺は何も言えなかった。
今も? え? 何を? ――疑問がぐるぐると頭を巡り、次につながる言葉が見つからない。
俺はBが何かに取り憑かれてしまったんだと思った。あるいは気が狂ったと。
そんな考えをよそに、Bが震える口調で喋りだした。
「あのとき、俺は下にいたけど、でも、ずっと見てたんだ」
「俺を見てたんだよな?」
「違うんだ。いや、始めはそうだった。けど、お前が階段を上りきったくらいから、見えだしたんだ」
「見えだした?」
本当はこれ以上、俺はBの話を聞きたくないと感じていた。もう奇妙な体験はしたくないという気持ちが大半を占めていた。
でも、Bは何か一人では抱えきれない感情を持っているんじゃないか、と気づいた。それが昨日の自分と重なった。
俺の話を最後までちゃんと聞いてくれたAとBだ。あれで自分がどれだけ救われたかを考えると、いま話を聞かなければいけない義務のようなものを感じた。
「何が見えたんだ?」
俺は意を決して聞いた。
Bは黙りこみ、目を泳がせてから、口を開いた。
「影……だと思う」
「影?」
俺はBを焦らせないようにオウム返しをする。
「うん。最初はお前の影だと思ってたんだ。けど、お前がしゃがみこんで残飯を食っているあいだも、ずっと影は動いてたんだ。お前の影が小さくなるのはちゃんと見えたし、自分らの影も足元にあった」
俺は話の続きを待った。Bは間を置かずに口を開いた。
「それ以外にも動き回る影が3つ……いや、4つくらいあった」
俺は、Bの冗談か勘違いであって欲しいと思った。気がつくと全身に鳥肌が立っていた。
目の前にいるBは、とてもじゃないが冗談を言っているように見えない。むしろ、冗談という言葉を口にしてはならない雰囲気をまとっていた。
「あそこには、俺しかいなかったぞ」
なんとか会話をもたせようとして、俺は言った。
「わかってる」
Bは沈んだ声だ。
「そもそも、あのスペースで3人も4人も動き回れるはずがない」
俺は、あの階段の横幅や踊り場の狭さを思い出して言った。
「あれは人じゃない。それくらいわかるだろ」
Bの口調は真剣だった。
「それに、どう考えても人じゃ無理だ」
Bの言葉に、俺は「どういうことだ?」と返した。
Bは眉間に皺を寄せて、表情を曇らせた。
「全部、壁に張り付いていた」
Bの呼吸が荒くなる。
「蜘蛛みたいに、ぜんぶ、壁とか天井に張り付いて、それで、もぞもぞと動いてて、それで、それで」
俺はBの腕に慎重に触れた、さっきのAみたいに振りほどかれないように。
「落ち着け! 深呼吸しろ。な? 大丈夫だ。みんないる」
Bは、しばらく興奮状態だったが、落ち着きを取り戻してまた話し始めた。
「あれは人じゃない。いや、元から人じゃないんだけど、そうじゃない。いや、人の形はしてるけど、違うんだ」
Bが何を言いたいのか、なんとなく分かるような気がした。俺は人間の形をした何者かが、壁に張り付いていたんだな、と伝えた。
Bは黙って頷いた。
俺はとっさに考えた。
Bが見たのは影じゃない。影そのものが壁や天井を動き回るのは不自然だ。仮に、それが影だったとしても、確実にその影を生む主体があるはずだ。
バカの俺でもそれぐらいわかる。
ただ、俺は自分の周りで這い回る何かをよそに、腐った残飯をもりもりと食べていたっていうのか。
あの音――あの音は何だった? あのガリガリと壁を引っ掻く音や奇妙な呼吸音は、扉の向こう側からじゃなく、俺のいる側のすぐそばで鳴っていたというのか。
恐怖が反芻してクラクラした。そんな俺の調子を知ってか知らずか、BはAの方に向き直り頭を下げた。
「ごめん、さっきは取り乱していた。俺が悪かった」
「いや、平気。こっちこそ悪かった」
Aもすかさず謝った。
その後、なんとなく気まずい雰囲気が続いたが、俺は平静を保つのに必死だった。
そんな中でAが口を開いた。
「お前さっき、今も見てるって言ってたけど」
Bはそれを最後まで聞かずに答える。
「ああ、ごめん。あれは、ちょっと、混乱してたんだ。ごめん。はは、今はもう大丈夫」
Bの笑顔は完全に作り笑いだった。明らかに口角は引きつっているし、目の下が痙攣していた。
Aと俺は、それ以上なにも聞かなかった。俺に関していえば、それ以上は怖くて聞けなかった。
ここまで話したBが敢えて何かを隠す。俺はなぜかそれを聞く気になれなかった。
少しの沈黙のあと、広間のほうから美咲ちゃんが朝飯の時間だと俺たちに声をかけた。
3人で話している間に結構な時間が過ぎていたらしい。
正直、食事をする気にはなれないが、不審に思われるのは嫌だったし、行くしかないと思った。
俺はのっそりと立ち上がり、動かない2人に言った。
「なるべく早いほうがいい。朝飯を食い終わったら言おう」
Aは同意したが、Bは違う反応を見せた。
「俺は飯いいや。Aさ、ノートパソコン持ってきてたよな? ちょっと貸してくれない?」
「いいけど、朝飯は食えよ」とAが言った。
「ちょっと調べたいことがあるんだ。あんまり時間もないし、悪いけど2人で行ってきてよ」
俺はまた揉めるのも嫌だし、女将さんに疑われるのを嫌ってAの腕を引いた。
「了解。美咲ちゃんに頼んでおにぎりでも作って持ってきてやるよ」
「うん、ありがとう」
Aは俺の意図を察して、体の向きを変える。
「パソコンは俺のカバンの中に入ってる。勝手に使っていいよ」
そして、俺とAはそのまま広間に移動した。