蓋の下

これは私が上京し、一人暮らしをしていた時の話です。

当時、私が住んでいた1DKは単身者用にしては珍しく、追い焚き機能がついている浴槽でした。

ある夜、お湯が沸いた頃を見計らって、風呂に入ろうと浴槽の蓋(ふた)を開けると、人の頭のような影が見えました。

頭部の上半分が浴槽の真ん中にポッコリと浮かび、鼻の付け根あたりから下が沈んでいます。

 

それは女の人の顔でした。

 

見開いた両目が正面の浴槽の壁を見つめ、黒く長い髪が海藻のように揺れて広がり、その隙間から白く細い腕が見え隠れしていました。

どんな姿勢をとっても、狭い浴槽にこんなふうに入れるはずがありません。

人間でないことは、明らかでした。

突然の出来事に、私は蓋を手にしたまま裸で立ちつくしてしまいました。

霊感について考えた事もなかった私が、こんな「モノ」を見てしまうなんて現実感がありません。

女は、呆然とする私に気づいたのか、目だけを動かし、ニタっと笑い、お湯の中の黒く長い髪の合間から、真っ赤な口をのぞかせました。

瞬間的に、まずい、と思った私は浴槽をすぐさま閉めました。

すると蓋の下からゴボゴボという音に混ざって笑い声が聞こえてきました。

それと同時に、閉じた蓋が下から引っ掻かれるようにガリガリと音を立てました。

私はシャンプーやブラシやボディーソープや洗面器など、その辺りにあるものをわざと大きな音を立てて手当たり次第に蓋の上に乗せ、大慌てで浴室から飛び出しました。

浴室の扉の向こうでは、蓋の下から聞こえる引っ掻く音が掌で叩く音に変わっていました。

私は脱いだばかりのTシャツとデニムパンツを身につけ、部屋を飛び出すとタクシーを拾い、一番近くに住む女友達のところへ逃げ込みました。

 

数時間後。

深夜一時を回っていたと思います。

鍵もかけず、また何も持たずに飛び出したこともあり、友人に付き添ってもらい部屋へ戻りました。

友人は、今回のような話を笑い飛ばすタイプで、好奇心旺盛な彼女が、浴室の扉を開けてくれる事になりました。

浴室は、とても静かでした。

蓋の上に載せたいろんなものは、全て床に落ちていました。お湯の中から聞こえた笑い声も、蓋を叩く音もしていません。

友人が浴槽の蓋を開きました。しかし、湯気が立つだけで、女の人どころか髪の毛の一本さえ浮かんでいません。

お湯もキレイなものでした。それでも気味が悪いので、友人に頼んで、お湯を落としてもらいました。

 

その時、私は全く別のところに嫌なものを見つけてしまったのです。

 

洋式便器の、閉じた蓋と便座の間から、長い髪がはみ出していました。

友人も、遅れてそれに気付きました。

彼女は私が止めるのも聞かず、便器の蓋を開けました。中には、女の人の顔だけが上を向いて入っていました。

まるでお面のようなその女の人は目だけを動かし、立ちすくんでいる友人を見、次に私を見ました。

私と視線が合った途端、女の人はまた口をぱっくりと開き、今度ははっきりと聞こえる甲高い声で笑い始めました。

 

 

はははは……はははははは……

 

 

笑い声にあわせて、女の人の顔がゼンマイ仕掛けのように小刻みに震え、はみ出た黒髪がぞぞぞぞっ……っと便器の縁から垂れ下がってきました。

顔を引きつらせた友人は、叩きつけるように便器の蓋を閉じ、片膝で蓋を押さえて、もう片方の手で水洗のレバーをひねりました。

耳障りな笑い声が、水の流れる音と、無理矢理飲み込もうとする吸引音にかき消されました。

その後は無我夢中だったせいか、よく覚えていません。気が付くと、私と友人は何も持たずに友人の部屋の前に逃げていました。

部屋に戻った友人は、まず初めにトイレと浴槽の蓋を開け、「絶対に閉じないでね」と言いました。

 

翌日の早朝、嫌がる友人に頼み込んでもう一度付き添ってもらい、自分の部屋へ戻りました。

しかしそこにはもう何もありませんでした。それでも私はアパートを引き払い、実家に帰ることにしました。

通勤時間が長くなるなどとは言っていられませんでした。

今でもお風呂に入るときは母か妹が入っているタイミングを見計らって一緒に入るようにしています。いい年して、と呆れられましたが、このトラウマが消えるまでは付き合ってもらうように説得しました。

トイレの蓋は、家族に了解をもらって、ずっと外したままにしてあります。

 

 

暗闇から見つめる視線

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