危険な好奇心

小学生のころ、俺たちは学校の裏山の奥地に秘密基地を造っていた。

秘密基地っつっても結構本格的で、複数の板を釘で打ち付けて、雨風を防げる三畳ほどの広さの小屋だ。

放課後にそこでオヤツ食べたり、マンガ読んだり、まるで俺たちだけの家のように使っていた。俺と慎と淳と犬二匹(野良)でそこを使っていた。

小五の夏休み、秘密基地に泊まって遊ぼうということになった。親には「○○の家に泊まる」と嘘をつき、小遣いをかき集めてオヤツ、花火、ジュースを買った。修学旅行よりワクワクしていた。

夕方の五時ごろに学校で集合し、裏山に向かった。

山に入ってから一時間ほど登ると俺たちの秘密基地がある。基地の周辺は二匹の野良犬(ハッピー♂、タッチ♂)の縄張りでもある為、基地に近くなると、どこからともなく二匹が尻尾を振りながら迎えに来てくれる。俺たちは二匹に「出迎えご苦労」と頭を撫でてやり、うまい棒を一本ずつあげた。

基地に着くと、荷物を小屋に入れ、まだ空が明るかったのでのすぐそばにある大きな池で釣りをした。まぁ釣れるのはウシガエルばかりだが(ちなみに釣ったカエルは犬の餌)。

釣りをしていると、徐々辺りが暗くなりだしたので、俺たちは花火をやりだした。俺たちよりも二匹の野良の方がハシャいでいたが。結構買い込んだつもりだったが、三十分もしないうちに花火も尽きて、俺たちは一旦小屋に入った。

夜の秘密基地というのは全員初めてで、山の奥地ということで、街灯もなく月明りのみ。聞こえるのは虫の鳴き声だけ。簡易ライト一本の薄明るい小屋に三人、最初はみんなで菓子を食べながら好きな子の話、先生の悪口など喋っていたが、静まり返った小屋の周囲から、時折聞こえてくる「ドボン!(池に何かが落ちてる音)」や「ザザッ!(何かの動物の足音?)」に俺たちは段々と恐くなってきた。

次第に「今、なんか音したよな?」「熊いたらどーしよう!?」と話しているうちに、冗談ではなく本気で恐くなってきた。

時間は九時、小屋の中は蒸し暑く、蚊もいて、眠れるような状況では無かった。それよりも山の持つ独特の雰囲気に俺たちは飲まれてしまい、みんな来た事を後悔していた。

明日の朝までどう乗り切るか俺たちは話し合った。結果、小屋の中は蒸し暑く、周囲の状況も見えないため、山を下りる事になった。

もう内心、俺は一時も早く家に帰りたいと思っていた。懐中電灯の明かりを頼りに足元を照らし、少し早歩きで俺たちは下山し始めた。五分ほどはハッピーとタッチが俺たちの周りを走り回っていたので心強かったが、少しすると2匹は小屋の方に戻っていった。

普段、何度も通っている道でも夜は全く別の空間にいるみたいだった。幅三十センチ程度の獣道を足を滑らさぬよう、みんな無言で黙々と歩いていた。

そのとき、慎が俺の肩を後ろから掴み「誰かいるぞ!」と小さな声で言ってきた。俺たちは瞬間的にその場に伏せ、電灯を消した。耳を澄ますと確かに足音が聞こえる。

 

ザッ、ザッ

 

二本足で茂みを進む音。

その音の方を目を凝らして、その何者かを捜した。俺たちから二、三十メートル離れた所の茂みに、その何者かは居た。懐中電灯片手に、もう一方の手には長い棒のようなものを持ち、その棒でしげみを掻き分け、山を登っているようだった。

俺たちは始め恐怖したが、その何かが「人間」であること。また相手が「一人」であることから、それまでの恐怖心はなくなり、俺たちの心は幼い好奇心で満たされていた。

俺が「あいつ、何者だろ? 尾行する?」と呟くと、二人は「もちろん!」と言わんばかりの笑顔を見せた。

微かに見える何者かの懐中電灯の明かりと草を書き分ける音を頼りに、俺たちは慎重に慎重に後を着けだした。

その何者かは、その後二十分ほど、山を登り続けて立ち止まった。

俺たちはその後方三十メートルほどの所に居たので、そいつの性別はもちろん、様子等は全くわからない。かすかな人影を捕らえる程度。ソイツは立ち止まってから背中に背負っていた荷物を下ろし、何かゴソゴソしていた。

 

「アイツ一人で何してるんだろ? クワガタでも獲りに来たんかなぁ」と俺は言った。

 

「もっと近づこうぜ!」と慎が言う。

 

俺たちは枯れ葉や枝を踏まぬよう、擦り足で、身を屈ませながら、ゆっくりと近づいた。

俺たちはニヤニヤしながら近づいていった。頭の中で、その何者かにどんな悪戯をしてやろうかと考えていた。

その時。

 

コン!

 

甲高い音が鳴り響いた。心臓が止まるかと思った。

 

コン!

 

また鳴った。一瞬何が起きたか解らず、淳と慎の方を振り返った。

すると淳が指を差し「アイツや! アイツなんかしとる!」と言った。

俺はその何者かの様子を見た。

 

コン! コン! コン!

 

何かを木に打ち付けていた。いや、手元は見えなかったが、それが「呪いの儀式」というのはすぐにわかった。と言うのも、この山は昔から藁人形に纏わる話がある。あくまで都市伝説的な噂だと、その時までは思っていたが。

俺は恐くなって「逃げよう」と言うと、「あれ、やっとるの女や。よー見てみ」と慎が小声で言い出した。

「どんな顔か見たいやろ?もっと近くで見たいやろ?」と淳が悪ノリして、二人はどんどん先に進み出した。

俺はイヤだったが、ヘタレ扱いされるのも嫌なんで渋々二人の後を追った。

その女との距離が縮まるたびに「コン! コン!」以外に聞こえてくる音があった。いや、音と言うか、女はお経のようなものを呟いていた。

少し迂回して、俺たちはその女の斜め後方8メートルほどの木の陰に身を隠した。その女は肩に少し掛かるぐらいの髪の長さで、痩せ型、足元に背負って来たリュックと電灯を置き、写真?のような物に次々と釘を打ち込んでいた。すでに六〜七本打ち込まれていた。

その時。

 

「ワンッ!」

 

俺たちはドキッとして振り返った、そこにはハッピーとタッチが尻尾を振ってハァハァいいながら「なにしてるの?」と言わんような顔で居た。

次の瞬間、慎が「わ゛ぁー!!」と変な大声を出しながら走り出した。振り返ると、鬼の形相をした女が片手に金づちを持ち、「ア゛ーッ!!」という奇声を上げながらこちらに走って来ていた。

俺と淳もすぐさま立ち上がり慎の後を追い走った。

が、俺の左肩を後ろから鷲づかみされ、すごい力で後ろに引っ張られ、俺は転んだ。

仰向きに転がった俺の胸に「ドスっ」と衝撃が走り、俺はゲロを吐きかけた。何が起きたか一瞬解らなかったが、転んだ俺の胸に女が足で踏み付け、俺は下から女を見上げる形になっていた。

女は歯を食いしばり、見せ付けるように歯軋りをしながら「ンッ〜ッ」と何とも形容しがたい声を出しながら、俺の胸を踏んでいる足を左右にグリグリと動かした。

痛みは無かった。もう恐怖で痛みは感じなかった。女は小刻みに震えているのが解った。恐らく興奮の絶頂なんだろう。俺は女から目が離せなかった。離した瞬間、頭を金づちで殴られると思った。

そんな状況でも、いや、そんな状況だったからだろうか、女の顔はハッキリと覚えている。年齢は四十ぐらいだろうか、少し痩せた顔立ち、目を剥き、少し受け口気味に歯を食いしばり、小刻みに震えながら俺を見下す。

俺にとってはその状況が十分か、二十分か、全く覚えてない。女が俺の事を踏み付けながら、背を曲げ、顔を少しずつ近づけて来た。

その時、タッチが女の背中に乗り掛かった。

女は一瞬焦り、俺を押さえていた足を踏み外してよろめいた。そこにハッピーも走って来て、女にジャレついた。恐らく、二匹は俺たちが普段遊んでいるから人間に警戒心が無いのだろう。俺はそのすきに慌てて起きて走りだした。

「早く早く!」と離れたところから慎と淳がこちらを懐中電灯で照らしていた。俺は明かりに向かい走った。

 

ドスッ

 

後ろで鈍い音がした。俺には振り返る余裕も無く走り続けた。

慎と淳と俺が山を抜けた時には零時を回っていた。足音は聞こえなかったが、あの女が追い掛けてきそうで俺たちは慎の家まで走って帰った。

慎の家に付き、俺は何故か笑いが込み上げて来た。極度の緊張から解き放たれたからだろうか?

しかし、淳は泣き出した。

俺は「もう、あの秘密基地二度と行けへんな。あの女が俺らを探してるかもしれんし」と言うと、淳は泣きながら「アホ! 朝になって明るくなったら行かなアカンやろ!」と言い出した。

俺がハァ? と思っていると、慎が「お前があの女から逃げれたの、ハッピーとタッチのおかげやぞ! お前があの女に後から殴られそうなとこ、ハッピーが飛び付いて、代わりに殴られよったんや!」と言った。

すると淳も泣きながら「あの女、タッチの事も、タッチも……うぅっ」と号泣しだした。

後から慎に聞くと走り出した俺を後から殴ろうとしたとき、ハッピーが女に飛び付き、頭を金づちで殴られた。女は尚も俺を追い掛けようとしたが、足元にタッチがジャレついてきて、タッチの頭を金づちで殴った。そして女は一度俺らの方を見たが、追い掛けてこず、ひたすら二匹を殴り続けていた。

俺たちはひたすら逃げた。

慎も朝になれば山に入ろうといった。もちろん、俺も同意した。

しかし、そこには、さらなる恐怖が待っていた。

 

 

興奮の為、明け方まで眠れず、朝から昼前まで仮眠を取り、俺たちは山に向かった。みんなあの〝中年女〟に備え、バットやエアガンを持参した。

山の入口に着いたが、慎が「まだアイツがいるかも知れん」と言うので、いつもとは違うルートで山に入った。

昼間は山の中も明るく、蝉の泣き声が響き渡り、昨夜の出来事など嘘のような雰囲気だ。しかし、中年女に出くわした地点に近づくに連れ緊張が走り、俺たちは無言になり、又、足取りも重くなった。少しずつ昨日の出来事が鮮明に思い出す地点に差し掛かった。

バットを握る手は緊張で汗まみれだ。

例の木が見えた。女が何かを打ち付けていた木。

少し近づいて俺たちは言葉を失った。

木には小さな子供(四、五歳ぐらいの女の子?)の写真に無数の釘が打ち付けられていた。いや、驚いたのはそれでは無い。その木の根元にハッピーの変わり果てた姿が。

舌を垂らし、体中血まみれで、眉間に一本、釘が刺されていた。俺たちは絶句し、近づいて凝視することが出来なかった。蝿や見たことの無い虫がたかっており、生物の「死」の意味を俺たちは始めて知った。

俺はハッピーの変わり果てた姿を見て、今度中年女に会えば、次は俺がハッピーのように…と思い、すぐにでも家に帰りたくなった。その時、淳が「タッチ……タッチの死体が無い! タッチは生きてるかも!」と言い出した。

すると慎も「きっとタッチは逃げのびたんだ! きっと基地にいるはず!」と言い出した。

俺もタッチだけは生きていて欲しい。と思い、三人で秘密基地へと走り出した。

秘密基地が見える場所まで走ってきたが、慎が急に立ち止まった。俺と淳は「中年女!?」と思い、慌てて身を伏せた。黙って慎の顔を見上げると、慎は「…なんだあれ?」と基地を指差した。

俺と淳はゆっくり立ち上がり、基地を眺めた。何か基地に違和感があった。何か……

基地の屋根に何か付いている。

少しずつ近づいていくと、基地の中に昨夜忘れていた淳の巾着袋(淳は菓子をいつもこれに入れて持ち歩いている)が基地の屋根に無数の釘で打ち付けてあるではないか!

俺たちは驚愕した。

この秘密基地、あの中年女にバレたんだ!

慎が恐る恐る、バットを握り締めながら基地に近づいた。

俺と淳は少し後方でエアーガンを構えた。基地の中に中年女がいるかもしれない。慎はゆっくりとドアに手を掛けると同時に、すばやく扉を引き開けた。

 

「うわっ!」

 

慎は何かに驚き、その場に尻餅を付きながら、ズルズルと俺たちの元に後ずさりをしてきた。俺と淳は何に慎が怯えているのか解らず、とりあえず銃を構えながら基地の中をゆっくりと覗いた。

そこには変わり果てたタッチの死体があった。

 

「うわっ!」

 

俺と淳も慎と同じような反応をとった。やはりタッチも眉間に五寸釘が打ち込まれていた。

俺はその時、思った。あの中年女は変態だ! いや、気違いだ! 普通、こんなことしないだろう。とてつもない人間に関わってしまったと、昨夜、この山に来た事を心から後悔した。

しばらく三人ともタッチの死体を見て呆然としていたが、慎が小屋の中を指差し「おい! あれ……」

俺と淳は、黙りながら静かに慎が指差す方向を覗き込んだ。

基地の中……

壁や床板に何か違和感が……何か文字が彫ってある。

近づいてよく見てみた。

 

 

「淳呪殺淳呪殺淳呪殺淳呪殺淳呪殺淳呪殺淳呪殺淳呪殺淳呪殺淳呪殺淳呪殺……」

 

 

無数に釘で「淳」「呪」「殺」と壁や床に彫ってあった。

淳は「え……」と目が点になり、固まっていた。俺たちも驚いた。なぜ名前がバレているのか!

その時、慎が「淳の巾着や、巾着に名前書いてあるやん!」と叫んだ。

 

「!?」

 

俺は目線を屋根に打ち付けられた巾着に持って行った。無数に釘で打ち付けられた巾着には確かに「五年三組○○淳」と書かれてある。

淳は泣き出した。俺も慎も泣きそうだった。学年と組、名前が中年女にバレてしまったのだ。もう逃げられない。俺や慎の事もすぐにバレてしまう。

頭が真っ白になった。

俺たちはみんなハッピーやタッチのように眉間に釘を打ち込まれて殺される。

慎が言った。「警察に言おう! もうダメだよ、逃げられないよ!」

俺はパニックになり「警察なんかに言ったら、秘密基地の事とか昨日の夜、嘘付いてここに来た事バレて親に怒られるやろ!」と冷静さを欠いた事を言った。いや、当時は何よりも親に怒られるのが一番恐いと思っていたのもあるが。

ただ、淳はずっと泣いたままだった。何も掛ける言葉が見つからなかった。

淳は無言で打ち付けられた巾着を引きちぎり、ポケットにねじ込んだ。

俺たちは会話が無くなり、とりあえず山を降りた。淳は泣いたままだった。俺は今もどこからか中年女に見られている気がしてビクビクしていた。

山を降りると慎が「もう、この山に来るのは辞めよ。しばらく近づかんといたら、あの中年女も俺らの事を忘れよるやろ」と言った。

俺は「そやな、んで、この事は俺らだけの秘密にしよ! 誰かに言ってるのがアイツにバレたら、俺ら殺されるかもしれん」と言った。

慎は頷いたが淳は相変わらず腕で涙を拭いながら泣いていた。その日、各自家に帰り、その後、その夏休みは三人で会うことは無かった。

 

 

二週間後の新学期、登校すると淳の姿は無かった。慎は来ていたので、慎と二人で「もしかして淳、あの女に……」と思いながら、学校帰りに二人で淳の家を訪ねた。

家の呼び鈴を押すと、明るい声で「はぁーい!」と淳の母親が出て来た。

俺が「淳は?」と聞くと、おばさんは「わざわざお見舞いありがとねー。あの子、部屋にいるから上がって」と言われ、俺と慎は淳の部屋に向かった。

「淳、入るぞ!」と淳の部屋に入ると、淳はベットで横になりながら漫画を読んでいた。以外と平気そうな淳を見て俺と慎は少し安心した。

 

「何で今日休んだん?」と慎が聞く。

「心配したぞ! 風邪け?」と俺は言った。

 

淳は無言のまま漫画を閉じて俯いていた。

そこにおばさんが菓子とジュースを持ってきて、「この子、十日ぐらい前からずっと蕁麻疹(じんましん)が引かないのよ」と言って「駄菓子の食べ過ぎじゃないの?」と続けた。

笑いながらおばさんは部屋を出ていった。

俺と慎は笑って「何だよ! 脅かすなよー、蕁麻疹かよ! 拾い食いでもしたんだろ?」とおどけたが、淳は俯いたまま笑わなかった。

慎が「おい! 淳どうした?」と訪ねると淳は無言でTシャツを脱いだ。

体中に赤い斑点。確かに蕁麻疹だった。

俺は「蕁麻疹なんて薬塗ってたら治るやん」と言うと、淳が「これ、あの女の呪いや」と言いながら背中を見せて来た。

確かに背中も無数に蕁麻疹がある。

慎が「何で呪いやねん。もう忘れろ!」と言うと、淳は「右の脇腹見て見ろや!」と少し声を荒げた。

右の脇腹……たしかに蕁麻疹が一番酷い場所だったが、なぜ「呪い」に結び付けるかが解らなかった。

すると淳が「よく見ろよ! これ、顔じゃねーか!」

よく見て俺と慎は驚いた。確かに直径五センチほどの人、いや、女の顔のように皮膚がただれて腫れ上がっている。

俺と慎は「気にしすぎだろ? たしかに顔に見えないことも無いけど」と言ったが、「どー見ても顔やんけ! 俺だけやっぱり呪われてるんや!」と言った。

俺と慎は、淳に掛ける言葉が見つからなかった。と言うより淳の雰囲気に圧倒された。いつもは温厚で優しい淳が少し病んでいる。青白い顔に覇気のない目、きっと精神的に追い詰められているのだろう。

俺と慎は急に淳の家に居づらくなり、帰ることにした。

帰り道、俺は慎に「あれ、どー思う? 呪いやろか?」と聞いた。

慎は「この世に呪いなんてあらへん!」と言った。なぜかその言葉に俺が勇気づけられた。

 

 

それから三日過ぎた。依然、淳は学校には来なかった。俺も慎も淳に電話がしづらく、淳の様子は解らなかった。ただクラスの先生が「風疹で淳はしばらく休み」と言っていたので少し安心していた。

しかし、このころから学校で奇妙な噂が流れ始めた。

「学校の通学路にトレンチコートにサンダル履きのオバさんが学童を一人一人睨むように顔を凝視してくる」という噂だ。

その噂を聞いた放課後、俺は激しく動揺した。何故なら俺は唯一、間近で顔を見られている。

慎に相談すると「大丈夫! 夜やったし見えてないって! それにあの日見られてたとしても忘れてるって!」と、俺を落ち着かせる為か、意外と冷静だった。

何よりも嫌だったのが、俺と慎は通学路が全くの正反対。俺と淳は近所なのだが、淳が休んでいる為、俺は一人で帰らなければいけない。

俺は慎に「しばらく一緒に帰ろうよ。俺、恐い」と慎に頼んだ。

慎は少し呆れた顔をしていたが、「淳が来るまでやぞ!」と行ってくれた。その日から、帰りは俺の家まで慎が付き添ってくれる事になった。

その日は学校で噂の「トレンチコートの女」(推定・中年女)には会わなかった。

次の日も、その次の日も会わなかった。しかし、学校では相変わらず「トレンチコートの女」の噂は囁かれていた。慎と一緒に下校することになり五日目、俺たちは久しぶりに淳の見舞いに行くことにした。

お土産に給食のデザートのオレンジゼリーを持って行った。

淳の家に着き、チャイムを押した。いつもの様に叔母さんが明るく出て来て俺たちを中に入れてくれた。

淳は相変わらず元気が無かった。蕁麻疹は大分消えていたが、淳本人は「横腹の顔の部分が日に日に大きくなっている」と言っていたが、俺と慎には全く解らなかった。むしろ、前回見たときよりはマシになっているように見えた。

淳は精神的にショックを受けているのだろう。

俺たちは学校で流れている「トレンチコートの女」の噂は淳には言わなかった。

帰り間際に淳の叔母さんが俺たちの後を追い掛けて来て、「淳、クラスでイジメにでも会っているの?」と不安げな顔で聞いてきた。俺たちは否定したが、本当の理由を言えないことに少し罪悪感を感じた。

 

 

それから三日後。その日は珍しく内藤と佐々木と俺と慎の四人で一緒に下校した。

内藤は体がデカく、佐々木はチビ。実写版のジャイアンとスネオみたいな奴らだ。もう俺と慎の中で中年女の事は風化しつつあった。学校で噂の「トレンチコートの女」も実在したとしても、全くの別人と思えていた。

その日は四人で駅前にガチャガチャをしに行こうと言う話になり、いつもと違う道を歩いていた。

 

これが間違いだった。

 

楽しく四人で話しながら歩いていると、「あ、あれトレンチコートの女じゃね?」と佐々木が言った。

すかさず「うわっ! ホンマや! きもっ!」と内藤が言った。

俺はトレンチコートの女を見てみた。心の中で「別人であってくれ!」と願った。

女はスーパーの袋を片手に持ち、まだ残暑の残るアスファルトの道で、ただ突っ立っていた。うつむいて表情は全く解らなかった。

慎は警戒しているのか、小声で俺たちに「目、合わせるなよ」と言ってきた。

少しずつ女との距離が縮まっていく。緊張が走った。女は微動たりせず、ただ、うつむいていた。

女との距離が五メートルほどになったとき、女は突然顔を上げ、俺たち四人の顔を見つめてきた。そして、その次に俺たちの胸元に目線を送って来ているのが解った。

 

 

名札を確認している!

 

 

俺は焦った。平常心を保つのに必死だった。一瞬見た顔であの日の出来事がフラッシュバックし、心臓が口から出そうになった。

間違いない。中年女だ!

俺はうつむきながら歩いて通り過ぎた。俺はいつ襲い掛かられるかとビクビクしていた。

どれくらい時が過ぎただろう。いや、ほんの数秒が永遠に感じた。

内藤が「あの目見たけ? あれ完全にイッテるぜ!」と笑った。佐々木も「この糞暑いのにあの格好! ぷっ!」と馬鹿にしていた。

しかし、俺と慎は笑えなかった。

佐々木が続けて「やべ! 聞こえたかな? まだ見てやがる!」と言った。

俺はとっさに振り返った。

中年女と目が合った。

まるで蝋人形のような無表情な中年女の顔がニヤっと、凄くイヤらしい微笑みに変わった。

背筋が凍るとはこの事か…

俺は生まれて始めて恐怖によって少し小便が漏れた。

バレたのか? 俺の顔を思い出したのか? バレたなら何故襲って来ないのか?

俺の頭はひたすらその事だけがグルグル巡っていた。

内藤が「うわーっ、まだこっち見てるぜ! 佐々木! お前の言った悪口聞かれたぜ! 俺知らねーっ!」っとおどけていた。

もうガチャガチャどころではない。曲がり角を曲がり、女が見えなくなった所で俺は慎の腕を掴み「帰ろう!」と言った。

慎は俺の目をしばらく見つめて「あ、今日塾だっけ? 帰らなやばいな!」と俺に合わせ、俺たちは走った。

家とは逆の方向に走り、しばらくして俺は慎に「アイツや! あの目、間違いない! 俺らを探しに来たんや!」と言った。

慎は意外と冷静に「マジマジと名札見てたもんな。学年とクラス、淳の巾着でバレてるし」と言った。

俺はそんな落ち着いた慎に腹がたち「どーすんだよ! もう逃げ切れねーよ! 家とかそのうちバレっぞ!!」と詰め寄った。

「やっぱ警察に言おう。このままはアカン。助けてもらお」と慎は言った。

俺はしばらく黙っていた。

たしかに他に助かる手は無いかもしれないと思った。

「でも、警察に何て言う?」と俺が問うと、慎は「山だよ。あの山に打ち付けられた写真とかハッピー、タッチの死体、あれを写真に撮って、あの女が変質者って言う証拠を見せれば警察があの女を捕まえてくれるはずや!」と答えた。

俺は納得したが、もうあの山に行くのは嫌だったが、仕方が無かった。

さっそく、明日の放課後、浦山に二人で行く事になった。

 

 

明日の放課後、裏山に行く。その話がまとまり、俺たちは家に帰ろうとしたが、中年女が何処に潜伏しているか解らない為、俺たちは恐ろしく遠回りした。通常なら二十分で帰れるところを二時間かけて帰った。

家に着いて俺はすぐに慎に電話した。

「家とかバレてないかな?今夜きたらどーしよ!」などなど。俺は自分で自分がこれほどチキンとは思わなかった。名前がバれ、小屋に「淳呪殺」と彫られた淳が精神的に病んでいるのが理解できた。

慎は「大丈夫、そんなすぐにバレないよ!」と俺に言ってくれた。

この時俺は思った。普段対等に話しているつもりだったが、慎はまるで俺の兄のような存在だと。もちろんその日の夜は眠れなかった。わずかな物音に脅え、目を閉じれば、あのニヤッと笑う中年女の顔がまぶたの裏に焼き付いていた。

 

 

朝が来て、学校に行き、授業を受け、放課後、午後3時半。俺と慎は裏山の入口まで来た。

俺は山に入るのを躊躇した。「中年女」「変わり果てたハッピーとタッチ」「無数の釘」頭の中をグルグルとあの夜の出来事が鮮やかに甦ってくる。

俺は慎の様子を伺った。慎は黙って山を見つめていた。慎も恐いのだろう。

「やっぱ、入るの恐いな……」と言ってくれ! と俺は内心願っていた。

慎はズボンのポケットからインスタントカメラを取り出し、右手に握ると、俺の期待を裏切り、「よし」と小さく呟き、山へ入るとすぐさま走りだした。

俺はその後ろ姿に引っ張られるように走りだした。

慎は振り返らずに走り続ける。俺は必死に慎を追った。一人になるのが恐かったから必死で追った。

今思えば慎も恐かったのだろう。恐いからこそ周りを見ずに走ったのだろう。

「あの場所」が徐々に近づいてくる。思い出したくもないのに「あの夜」の出来事を鮮明に思いだし、心に恐怖が広がりだした。恐怖で足がすくみだした時、あの場所に着いた。そう、「中年女が釘を打っていた場所」「中年女がハッピー、タッチを殺した場所」「中年女に引きずり倒された場所」だ。

 

中年女と出会ってしまった場所

 

俺は急に誰かに見られているような気がして周りを見渡した。いや、「誰かに」では無い、「中年女に」見られているような気がした。山特有の静寂と、自分自身の心に広がった恐怖がシンクロして足が震えだす。

立ち止まる俺を気にかける様子無く、慎はあの木に近づきだした。

何かに気付き、慎はしゃがみ込んだ。

 

「ハッピー……」

 

その言葉に俺は足の震えを忘れ、慎の元に歩み寄った。

ハッピーは既に土の一部になりつつあった。頭蓋骨をあらわにし、その中心に少し錆びた釘が刺さったままだった。

俺は釘を抜いてやろうとすると、慎が「待って!」と言い、写真を一枚撮った。

慎の冷静さに少し驚いたが、何も言わず俺は再び釘を抜こうとした。頭蓋骨に突き刺さった釘をつまんだ瞬間、頭蓋骨の中から見たことの無い、多数の虫がザザッと一斉に出てきた。

「うわっ!」俺は慌てて手を引っ込め、立ち上がった。ウジャウジャと湧いている小さな虫が怖く、ハッピーの死体に近づく事が出来なくなった。それどころか、吐き気が襲って来てえずいた。慎は何も言わずに背中を摩ってくれた。

俺はあの夜、ハッピーを見殺しにし、又、ハッピーを見殺しにした。俺は最高に弱く、最低な人間だ。

慎はカメラを再び構え、「あの木」を撮ろうとしていた。

「ん!? おい! ちょっと来てーや!」

何かを発見し、俺を呼ぶ慎。俺は恐る恐る慎の元に歩み寄った。

慎が「これ、この前無かったよな?」と何かを指差す。

その先に視線をやると、無数に釘の刺さった写真が…。ん?たしか前もあったはずじゃ……

 

いや! 写真が違う!

 

厳密に言うと、この前見た「四、五歳ぐらいの女の子」の写真はその横にある。つまり、写真が増えている!

写真の状態からして、ここ二、三日ぐらいに打ち込まれているであろう。

この前に見た写真は、既に女の子かどうかもわからないぐらいに雨風で表面がボロボロになっている。

新しい写真も「四、五歳ぐらいの女の子」のようだ。

この時、慎には言わなかったが、俺は一瞬「新しい写真が俺だったらどうしよう!」とドキドキしていた。

慎はカメラにその打ち込まれた写真を撮った。

そして、「後は秘密基地の彫り込みを撮ろう」と言い、又走りだした。俺は近くに中年女がいるような錯覚がし、一人になるのが怖くて、慌てて慎を追った。

秘密基地に近づいてきて、俺は違和感を持ち、「慎!」と呼び止めた。

 

違和感――

 

いつもなら秘密基地の屋根が見える位置にいるはずなのだが、屋根が見えない。

慎もすぐに気付いたようだ。このとき脳裏に中年女がよぎった。

胸騒ぎがする。鼓動が激しくなる。

慎が「裏道から行こう」と言った。俺は無言で頷いた。

裏道とは獣道を通って秘密基地に行く従来のルートとは別に、茂みの中をくぐりながら秘密基地の裏側に到達するルートの事である。

この道は万が一秘密基地に敵が襲って来た時の為に造っておいた道。もちろん、遊びで造っていたのだが、まさかこんな形で役に立つとは……

この道なら万が一、基地に中年女がいても見つかる可能性は極めて低い。俺と慎は四つん這いになり、茂みの中のトンネルを少しずつ進んだ。

そして秘密基地の裏側、およそ五メートルほどの位置にさしかかった時、基地の異変の理由が解った。

バラバラに壊されている。

俺たちが造り上げた秘密基地はただの材木になっていた。

しばらく様子を伺ったが、中年女の気配もないので俺たちは茂みから抜けだし、秘密基地「跡地」に到達した。

俺たちは、バラバラに崩壊された秘密基地を見て、少し泣きそうになった。

秘密基地は言わば俺たち三人と二匹のもう一つの家。

バラバラになった材木の片隅に大きな石が落ちていた。恐らく誰かがこれをぶつけて壊したのだろう。

誰かが……いや多分、中年女が。

慎が無言で写真を撮りだした。そして数枚の材木をめくり、「淳呪殺」と彫られた板を表にして写真を撮った。その時、わずかな板の隙間からハエが飛び出し、その隙間からタッチの遺体が見えた。

ハッピーとタッチ。秘密基地よりもかけがえの無い二匹を俺たちは失った事を痛感した。

慎は立ち上がり「よし、このカメラを早く現像して警察に持って行こう」と言った。

俺たちは山を駆け降りた。山を降り、俺たちは駅前の交番へ急いだ。

「このカメラに納められた写真を見せれば、中年女は捕まる。俺らは助かる」その一心だけで走った。

途中でカメラ屋に寄り現像を依頼。出来上がりは三十分後と言われたので俺たちは店内で待たせてもらった。その間、慎との会話はほとんど無かった。ただただ写真の出来上がりが待ち遠しかった。

 

 

そして三十分が過ぎた。

 

 

「お待たせしましたー」バイトらしき女店員に声をかけられた。

俺と慎は待ってましたとばかりにレジに向かった。

女店員は少し不可解な顔をしながら「現像出来ましたので中の確認をよろしくお願いします」といいながら写真の入った封筒を差し出した。まぁ現像後の写真が犬の死骸や釘に刺された少女の写真のみだから、不可解な顔をするのも当然だが。

慎はその場で封筒から写真を取り出し、すべての写真を確認すると「大丈夫です。ありがとうございました」と言い、代金を支払った。店を出て、すぐさま交番へ向かった。

これで全てが終わる。

駅前の交番へ二人して飛び込んだ。

「ん? どうしたの?」中にいた若い警官が笑顔で俺たちを迎えてくれた。

俺たちはその警官の元に歩み寄り、「助けてください!」と言った。

俺と慎は「あの夜」の出来事を話した。裏付ける写真も一枚一枚見せながら話した。そして、今も中年女に狙われている事を。

一通り話し終わるとその警官は穏やかな表情で「お父さんやお母さんに言ったの?」と聞いてきた。

俺たちは親には伝えてないと言うと、「うーん、じゃあ家の電話番号教えてくれるかな?」と警官は言い出した。

慎が「なんで親が関係あるの? 狙われているのは俺たちだよ?」とキレ気味に言い放った。

ちなみに慎の両親は医者と看護婦。高校生の兄貴は某有名私立高校生。俺たち三人の中で一番裕福な家庭だが、一番厳しい家庭でもある。

「あの夜」親に嘘をついて秘密基地に行き、このような事に巻き込まれた、などバレれば、俺や淳もだが、慎が一番洒落にならないのである。

 

「助けてよ! 警察官でしょ!!」と慎が詰め寄る。

 

警官は少し苦笑いして、「君達小学生だよね?やっぱり、こーゆー事はキチンと親に言わなきゃダメだよ」と、しばらくイタチゴッコが続いた。

あげくに警官は「じゃあ君達の担任の先生は何て名前?」など、俺たちにとっては「脅し」に取れる言葉を投げ掛けてきた。

まぁ、警官にとっては俺たちの「保護者及び責任者」から話を聞かないとって感じだったのだろうが、俺たちにとって、こういう時の親や先生は怒られる対象にしか考えられなかった。

そうこうしているうちに、俺たちの心の中に、目の前にいる警官に対して不信感が芽生えてきた。「このまま此処にいれば、無理矢理住所を言わされ、親にチクられる」と。

この警官は俺たちの話を信じてくれてないのでは? と俺は思い始めた。

俺や慎が必死に助けを求めているのに「親」「先生」ばかり言ってくる。

俺たちは中年女の存在を裏付ける証拠写真まで持参しているのに。

俺はもう一度警官に写真を見せつけ「犬をこんな殺し方する奴なんだよ!」と言った。

すると、警官はしばらく黙り込み、写真を手に取り、意外な一言を言った。

「うーん。これって犬なの?」

「は?」と俺と慎は驚いた。この人は何を言っているんだろうと。

続けて警官は「いや、君達を信じていない訳じゃないよ。じゃあもう少し詳しく教えて。ここが頭?」

警官は冗談を言っている訳では無く、本当に解らないようだ。俺はハッピーの写真を取上げ「だから……」と説明しかけて言葉が詰まった。

確かに、この写真を客観的に見ると犬の死骸には見えないかも……と思った。薄茶色に変色した骨に、所々わずかに残っている毛。俺と慎は、ハッピーが死体になった翌日にも見ているので、腐食が進んでいても元の形(倒れていた角度、姿)を知っているが、知らない奴が見ると、ただの汚れた石に汚い雑巾の様なものが絡んでいるようにしか見えないかも知れなかった。

俺は冷静に他の写真も見てみた。板に刻まれた「淳呪殺」、少女の写真に無数の「釘」。

たしかに中年女の存在に直接結び付けるのは難しいのか?

ひょっとして警官は「小学生の悪戯」と思っていて、先程から「親」「先生」などと言っているのか?

俺はこのまま此処にいては危険だと感じ出した。

「絶対、親を呼び出すつもりだ!」

俺は慎に小さな声で耳打ちした。慎は無言で頷き、アゴをクイッと動かし、外に出る合図を送ってきた。すると次の瞬間には慎は勢いよく振り向き、走りだした。俺もすぐさま後を追い、交番から抜け出した。

後ろから「おいっ!」と警官が呼び止める声がしたが、俺たちは振り向かずに走り続けた。

警官が追い掛けてくる気配は無かった。警官はおそらく「悪戯しにきた小学生が、嘘を見破られそうになり逃げ出した」とでも思っているのだろう。俺と慎は警官が追って来ていないことを充分に確認し、道端に座り込み、緊急ミーティングを開催した。

 

「これからどーする?」

「どーしよ」

 

俺たちは途方に暮れていた。最後の切り札の警察にも信じてもらえず、中年女から身を守る術を失った。

これで全てが解決すると俺たちは思い込んでいただけにショックは大きかった。

このままだったら中年女に住所バレて……俺は恐かった。

すると慎が「しばらくあの女には出くわさないように注意して」と言いかけたが、俺はすぐに「もう無理だよ! 淳の学年とクラスがバレてる時点ですぐに俺らもバレるに決まってる!」と少し声を荒げた。

少し間を置いて、「でもあの女……俺たちに何かする気あるのかな?」と慎が言った。

俺は首をかしげ黙っていた。

 

「だってこの前俺ら学校帰りにあの女に出会ったじゃん。もし何かするつもりならあの時でも良かった訳じゃん」

慎が続ける。

「それに山、もし俺らのことを許してないなら山に何らかの呪い彫りとかあってもいいはずじゃん」

 

俺は黙っていた。

たしかに。山に行った時、確かに新しい俺たちに対する呪い的な物は無かった。秘密基地は壊されていたが……

新しい「女の子の釘刺し写真」はあったが、俺たち、ましてフルネームがバレている淳の「呪い彫り」は無かった。

俺は内心「そうなのか?」と反論したかったが、止めておいた。

それは慎の言う通り、実は俺たちが思っているほど中年女は俺たちの事を怨んでいない、忘れかけている、と思いたかったからだ。

慎はもう一度「俺らを本気で怨んでいるなら、何らかのアクションを起こすはずだろ?」と、まるで俺を安心させるかのように言った。

そして「学校の近くをウロついてるのも、俺らを捜してるんじゃなくて、写真の女の子を捜してる可能性もあるだろ?」と続けた。

 

「そうか……」

 

俺はその慎の言葉を聞いて少し気持ちが楽になった気がした。と言うか、慎の言った言葉を自分自身に言い聞かせ、自分自身を無理矢理納得させようとした。それは現実逃避に近いかもしれないが。

慎自身もそうだったのかも知れない。もう中年女から逃げる術が見つからず、ただ言ってみたのかも知れない。

しかし俺は、俺たちは

「そーだよな! そのうち俺らのことなんて忘れよる!」

「もう忘れとるって!」

「なんだよチクショウ! ビビって損した!」

「ほんま、あの女、泣かしたろか!」

とお互い強がって見せた。ある意味やけくそに近かったのかもしれない。

 

しばらくその場で慎と中年女の悪口など、談笑していた。辺りは薄暗くなり始め、俺たちは帰宅することにした。

慎と別れる道に差し掛かったとき、「明日の帰り、淳の様子見に行こっか!」「おう、そやな!」とお互い明るく振る舞って手を振り別れた。

俺の心は少し晴れやかになっていた。「そうだよな。慎の言う通り中年女はもう俺たちの事なんて忘れてるよな」と。

まるで自己暗示のように繰り返し言い聞かせた。足取りも軽く、石を蹴りながら家に向かった。空を見上げると雲も無く、無数の星がキラキラ輝き、とても清々しい夜空だった。今まで中年女の事でウジウジ悩んでいたのが馬鹿らしく思えた。自宅に近づき、その日は見たいアニメがあるのに気付き、俺は小走りで家に向かった。

 

タッタッタッタッ

 

夜の町内に俺の足跡が響く。

 

タッタッタッタッ

 

静かな夜だった。

 

タッタッタッタッ

 

ん?

 

タッタッタッタッ

 

俺の足音以外に違う足音が聞こえる。

後ろを振り向いた。

暗くて見えないが誰もいない。気のせいか。

何だかんだ言って俺は小心者だなと思いながら再び走った。

 

タッタッタッタッ

 

タッタッタッタッ

 

……誰かいる。

 

俺はもう一度立ち止まり、目を凝らして後ろを眺めた。

やっぱり誰もいない。

俺の足音に混じって、誰かが後ろから走ってくるような足音が聞こえたはずだが。

俺は、自分でも気付かないうちに精神的に中年女追い詰められているのか? ビビり過ぎているのか?

しばらく立ち止まり、ずっと後ろを眺めていた。

ドックンドックン鼓動を打っていた心臓が、一瞬止まりかけた。

十五メートルほど後方、民家の玄関先に停めてある原付きバイクの陰に誰かがしゃがんでいる。

いや、隠れている。

月明かりでハッキリ黙視できないが、一つだけハッキリと見えたものがある。

 

コートを着ている。

 

しばらく俺は固まった。

隠れている奴は、俺に見つかっていないと思っているようだが、シルエットがハッキリ見える。

俺は一瞬混乱した。

「中年女だ中年女だ中年女だ中年女! 中年女!」

腰が抜けそうになったが、もう一人の俺が逃げなきゃ、と自分に命令した。

俺は思い切り走った。運動会の時よりも必死に走った。もう風を切る音以外聞こえないほど、無呼吸で走り続けた。

無我夢中で家に向かって走った。家まであと十メートル。よし、逃げ切れる!

 

「――!」

 

一瞬、頭にあることがよぎった。

「このまま家に逃げ込めば間違いなく家がバレる」

俺はとっさに自宅前を通過し、そのまま住宅街の細い路地を走り続けた。

当てもなく、ただ俺の後方を着いて来ているであろう中年女を巻く為に。

五分ほど、でたらめな道を走り続けた。さすがに息が切れ始めたため、歩きながら後ろを振り向いてみた。

もう、中年女らしき人影も足音も聞こえて来ない。

俺は周囲を警戒しつつ、自宅方面へ歩き始めた。

再び自宅の十メートルほど手前に差し掛かり、俺はもう一度周囲を警戒し、玄関にダッシュした。

両親が共働きで鍵っ子だった俺はすばやく玄関の鍵を開け、中に入り、すばやく施錠した。

 

「フゥ……」

 

安堵感で自然とため息が出た。とりあえず、慎に報告しなければと思い、部屋に上がろうとして靴を脱ぎかけた時、玄関先で物音がした。

 

「!?」

 

俺は、靴を脱ぎかけのまま固まり、玄関扉の方を凝視した。

家の玄関は曇りガラスにアルミ冊子がしてある引き戸タイプになっている。その曇りガラスの向こう側に、人影が見えた。

玄関扉を挟んで一メートルほどの距離に中年女がいる!

俺は息を止め、気配を消した。

むしろ身動き出来なかった。まるで金縛り状態だった。「蛇に睨まれた蛙」とはこのような状態の事を言うのだろう。

曇り硝子越しに見える中年女の影をただ見つめるしか出来なかった。

しばらく中年女はじっと玄関越しに立っていた。微動すらせず。ここに俺がいることがわかっているのだろうか。

その時、硝子越しに中年女の左腕がゆっくりと動き出した。

そして、ゆっくりと扉の取手部分に伸びていき、「キシッ!」と扉が軋んだ。

俺の鼓動は生まれて始めてといっていいほどスピードを上げた。

中年女は扉が施錠されている事を確認するとゆっくりと左腕を戻し、再びその場に留まっていた。

俺は依然、硬直状態。すると中年女は玄関扉に更に近づき、その場にしゃがみ込んだ。そして硝子に左耳をピッタリと付けた。

室内の様子を伺っている!

目の前の曇り硝子越しに、鮮明に中年女の耳が映った。

もう俺は緊張のあまり吐きそうだった。鼓動はピークに達し、心臓が破裂しそうになった。中年女に鼓動音がバレる、と思うほどだった。

中年女は二、三分間、扉に耳を当てがうと再び立ち上がり、こちら側を向いたまま、ゆっくりと、一歩ずつ後ろにさがって行った。

硝子に映る中年女の影が少しづつ薄れ、やがて消えた。

 

「行ったのか……?」

 

俺は全く安堵出来なかった。

中年女は去ったのか? 俺がここにいることを知っていたのか? まだ家の周りをうろついているのか?

もし中年女に俺がこの家に入る姿を見られていて、俺の存在を確信した上で、さっきの行動を取っていたのだとしたら、間違いなく中年女は家の周囲にいるだろう。

俺はゆっくりと、細心の注意を払いながら靴を脱ぎ、居間に移動した。

一切、部屋の明かりは点けない。明かりを燈せば、俺の存在を知らせることになりかねない。

俺は居間に入ると真っ直ぐに電話の受話器を持ち、手探りで暗記している慎の家に電話をかけた。

三コールで本人が出た。

 

「慎か? やばい、来た! 中年女が来た! バレた! バレたんだ!」

俺は焦りながら小声で慎に伝えた。

「え? どーした? 何があった?」と慎が言った。

「家に中年女が来た! 早く何とかして!」俺は慎にすがった。

「落ち着け! 家に誰もいないのか?」

「いない! 早く助けて」

「とりあえず戸締まり確認しろ! 中年女は今どこにいる?」

「わからない! でも家の前までさっきいたんだ!」

「パニクるな! とりあえず戸締まり確認だ!いいな!」

「わかった! 戸締まり見てくるから早く来てくれ!」

 

俺は電話を切ると、戸締りを確認しにまずは便所に向かった。

もちろん家の電気は一切つけず、五感を研ぎ澄まし、暗い家内を壁づたいに便所に向かった。

まずは便所の窓をそっと音を立てず閉めた。次は隣の風呂。風呂の窓もゆっくり閉め、鍵をかけた。そして風呂を出て縁側の窓を確認に向かった。廊下を壁づたいに歩き縁側のある和室に入った。

縁側の窓を見て違和感を覚えた。

いや、いつもと変わらず窓は閉まってレースのカーテンをしてあるのだが、左端……

人影が……映っている。

誰かが窓の外から、窓に顔を付け、双眼鏡を覗くように両手を目の周辺に付け、室内を覗いている。

家の中は電気をつけていない為、外の方が明るく、こちらからはその姿が丸見えだった。

窓に中年女がヤモリの如く張り付いている。俺は腰が抜けそうになった。

これは動物の本能なのだろうか、肉食獣を見つけた草食動物のように、俺はとっさにしゃがみ込んだ。全身が無意識に震えていた。

中年女からこちらは見えているのか?

中年女はしばらく室内を覗き、そのままの体勢で、ゆっくりと窓の中心まで移動して来た。

そして「キュルキュルキュル」と嫌な音が窓からしてきた。

中年女の右手が窓を擦っている。左手は依然、目元にあり、室内を覗きながら。

「キュルキュルキュル」

嫌な音は続く。俺の恐怖心はピークに達した。何かわからないが、中年女の奇行に恐怖し、その恐怖のあまり、声を出す事すら出来なかった。

しかし、次の瞬間中年女は、素早く後ろを振り返り、凄い勢いで走り去って行った。

俺は何が起きたかわからず、身動きも出来ずに、ただ窓を見ていた。

すると、窓の向こうの道路に赤い光がチカチカしているのが見えた。

警察が来たんだ!

俺は状況が飲み込めた。偶然通りかかったパトカーに気付き、中年女は逃げて行ったんだと。

しばらく俺はしゃがみ込んだまま震えていた。

 

「プルルルル」

 

その時、電話が突然鳴った。心臓が止まりかけた。ディスプレイを見ると慎の自宅からの電話だった。

俺は慌てて電話に出た。

「どう?」と慎が聞いてきた。

「なんか部屋覗いとったけど、どっか行った」

「そっか、親が帰って来たんか?」

「いや、たまたまパトカー通りかかって、それにビビって逃げたんやと思う」

「そーなんや! 良かった。俺、お前んちの近くに不審者がいるって通報しといてん。でも、あいつに家バレたんやったら、そろそろ親にも相談しなあかんかもなぁ」

「…………」

慎「俺も今日、親に言うから。お前も言えよ!もうヤバイよ!」

「……うん」

 

そして電話を切った。

その三十分後、母親がパートから帰って来た。

俺は、部屋の電気を消したまま玄関に走り、母の顔を見た瞬間、安堵感からか、泣き出した。

母親は、呆気にとられてキョトンとしていた。

俺はしばらく泣き続けた後、「ごめんなさい」と冒頭に謝罪をしてから、「あの夜」の出来事から「さっき」の出来事までを説明した。

説明の途中、父親も帰宅し、父には母が説明した。

その後、父が無言で和室の窓硝子を見に行った。

窓硝子は鋭利な何かで凄い傷が付けられていた。

「鋭利な何か」が「五寸釘」だと直感でわかった。

両親は俺を叱らず、母親は俺を抱きしめてくれ、父は警察に電話をかけていた。

 

十分ほどしてから警察が来た。

警察には父が事情を説明していた。

俺はしばらくの間、母親と居間にいたが、少ししてから警官が居間に来て「あの夜」の事を聞いてきた。ハッピーとタッチの事、木に釘で刺された少女の写真の事、淳の名前が秘密基地に彫られていたこと。

その後、放課後に出会った事など、中年女に係わる全ての事を話した。そして「さっき」の出来事も。

鑑識らしき人も来ていて、俺が話している間に窓の指紋を採取していた。

俺が話した内容で、警官がもっとも詳しく聞いてきたことが「少女の写真」の事だった。

「その少女」の容姿や面識の有無等聞かれたが、それについてはよく解らない、と答えるしかなかった。

そして裏山の地図を書かされ、翌日、警察が調べに行くと言う事になり、自宅周辺の夜間パトロール強化を約束して警察官は帰っていった。

結局、指紋は出なかった。

しばらくして、慎と淳の親から電話がかかってきた。親同士で何やら話していたが中年女に関する話、というより、学校にどのように説明するかを話していたようだ。

 

その夜、俺は何年かぶりに両親と共に寝た。恥ずかしさなど微塵も無く、純粋に中年女が怖く、なかなか寝付け無かったからだ。

次の日の朝、母親に起こされた時にはすでに午前八時を回っていた。

「遅刻する!」と慌てると母が「今日は家で寝てなさい」と言った。

どうやら既に学校に事情を話したらしい。父はすでに出社していたが、母はパートを休んでいた。

多分、慎や淳も今日は学校を休んでいるだろうと思ったが、あえて電話はしなかった。

慎は厳格な両親に怒られて、淳の両親は不登校になった淳の真実を知り、ショックを受けているだろうと思うと電話するのが恐かった。

俺は自室に篭り、中年女が早く警察に捕まることだけを願っていた。一時も早く追い詰められる恐怖から解放されたかった。

母親は何故か中年女の事を口にしてこなかった。俺への気配りと思い、俺も何も言わなかった。

昼飯を食べ、ふたたび自室に篭っていると、「ドスっ」と家の外壁に鈍い音が響いた。

俺はすぐに慎だ、と思った。あいつは俺を呼び出す時、玄関の呼鈴を鳴らさず、窓に小石を投げてくる事がしばしばあったからだ。

俺は窓から外を眺めた。

家の前の路地に立っている電柱の側に慎がいるはずだと思ったが、そこに慎の姿は無かった。

どこかに隠れているのかと思い、見える範囲で捜したが何処にもいない。

その時、俺の部屋の下にあたる庭先から「キャ!」と母親の声がした。

びっくりして窓を開け、身を乗り出し、下を見た。

そこには母親が地面を見つめながら口元に手を当てがい、何かを見て驚いていた。

俺は何が起こっているのか解らず「どーしたの!?」と聞いた。

母は俺の声にギクッと反応し、こちらを見上げ、驚いた表情で無言のまま家の外壁を指差した。

俺は良からぬ感じを察したが、母の指差す方向を見た。そこには何やらドロっとした紫色した液体とゼリー状の物が付いていた。

先ほどの「ドスっ」の音の正体であろう。

視線を母の足元に落とし、その何かを捜した。

そこには内蔵が飛び出た大きな牛蛙の死体が落ちていた。

母はしばらく呆然と立ち尽くしていた。俺は、すぐに中年女が頭に浮かんだ。すぐに中年女の姿を捜したが、何処にも姿は見えなかった。

母はふと思い出したように居間に駆け込み、警察に電話をした。

母は青い顔をしていた。恐らくこの時始めて中年女の異常性を知ったのだろう。そうだ、あの女は異常なんだ。きっと今も蛙を投げ込んできた後、俺や母の驚く姿を見てニヤついているはずだ。きっと近くから俺を見ているはずだ。

鳥肌が立った。

「警察早く来てくれ!」と心の中で叫んだ。

もうこの家は「家」では無い。中年女からすれば「鳥籠」のように俺たちの動きが丸見えなんだ。常に見られているんだと感じ出した。

しばらくしてパトカーがやってきた。昨日とは違う警官二人だった。

警官一人は外壁や、投げ込んで来たであろう道路を何やら調べ、もう一人は俺と母に「何か見なかったか?」「その時の状況は?」などなど、漠然とした事を何度も聞いて来た。

最後に警官が不安を煽るような事を言って来た。

「たしか、昨日も嫌がらせを受けているんですよね? 恐らく犯人はすぐにでも同じような事をしてくる可能性が高いです」

俺はたまらず「あの呪いの女なんです! コートを着てる四十歳ぐらいの女なんです! 早く捕まえてください!」と半泣きになって懇願した。

すると警察官は「さっきね、山を見てきたんだよ。犬の死体も板に彫られたお友達の名前も、あと女の子の写真もあったよ。今からそれを調べて必ず犯人捕まえるから」と言い、俺の肩をポンと叩くと、母の元へ行き何やら話していた。

「主人に連絡を」みたいな事を言われていたようだ。

壁に付いた蛙の染み、及びその死体の写真を撮り、一時間ほどで警官達は帰って行った。

しばらくして父親が帰宅した。まだ五時前だった。昨日の今日だから心配になったのだろう。夕食の準備をしている母も、夕刊を読んでいる父も無言だったが、どことなくソワソワしているのが解った。もちろん俺自信も次にいつ中年女が来るのか不安で仕方なかった。

その日の晩飯は、家族みんなが無口で、テレビの音だけが部屋に響いていた。

そして夜十一時過ぎ、みんなで床に就いた。用心の為、一階の居間は電気を点けっぱなしにしておくことになった。

 

その夜も家族揃って同じ部屋で寝た。もちろんなかなか寝付けなかった。

どれぐらい時間が過ぎただろう。

突然玄関先で「オラァー!!」とドスの効いた男の声と共に「ア゛ー!ア゛ー!」と聞き覚えのある奇声が聞こえた。

俺たち家族は、全員飛び起き、父が慌てて玄関先に向かった。

俺は母にギュッと抱き締められ、二人して寝室にいた。

 

「ガチャ……ガラガラガラガラ」

 

父が玄関の鍵を開け、戸を開ける音がした。

戸を開ける音と共に、再び「ア゛ー!! チキショー! ア゛ァー!! ア゛ァァァァ!」と中年女の叫びが聞こえて来た。

 

「大人しくしろ!」「オラ暴れるな!」と、男の声もした。

 

この時、俺は「警官だ! 警官に捕まったんだ」と事態を把握した。

中年女は奇声を上げ続けていた。

俺は震え上がり、母の腕の中から抜けることが出来なかった。

父親が戻って来ると、「犯人が捕まったんだ。お前が山で見た人かどうかを確認したいそうだが。大丈夫か?」と尋ねてきた。

もちろん大丈夫ではなかったが、これで本当に全てが終わる。終わらせることが出来る、と自分に言い聞かせ「うん」と返事した後、ゆっくりと階段を降りて玄関先に向かって行った。

玄関先から「オマエーっ! チクショー! オマエまで私を苦しめるのかー!」と凄い叫び声が聞こえたので、足がすくんだが、父が肩を抱いていてくれたお陰で、何とか二人の警官に取り押さえられた中年女の前に立った。

俺は最初、恐怖の余り、自分の足元しか見れなかったが、父に肩を軽く叩かれ、ゆっくりと視線を中年女に送った。

両肩を二人の警官に固められ、地面に顎を擦りつけながら中年女は俺を睨んでいた。

相当暴れたらしく、髪は乱れ、目は血走り、野犬の様によだれを垂れていた。

 

「オマエー! オマエー! どこまで私を苦しめるー!」

 

訳のわからない事を中年女は叫び、ジタバタしていた。

それを取り押さえていた警官が「間違いない? 山にいたのはコイツだね?」と聞いてきた。

俺は中年女の迫力に押され、声を出すことが出来ず、無言で頷いた。

警官はすぐに手錠をはめ「貴様、放火未遂現行犯だ!」と言った。

中年女は、手錠をはめられた後もずっと奇声を発し暴れていたが、警官が二人掛かりでパトカーに連行して行った。

そして一人だけ警官がこちらに戻って来て、事情を説明しますと話し出した。

 

「自宅前をパトロールしてると玄関に人影が見えまして、あの女なんですけど、しゃがみ込んでライターで火を付けていたんですよ。玄関先に古新聞置いてますよね?」と警官が言った。

 

「いえ、置いてないですけど?」と母が答えた。

 

「じゃあこれも、あの女が用意したんですかね?」と警官は指を差しながら言った。

 

そこには新聞紙の束があった。確かにうちがとっている新聞社の物では無かった。

警官が何かに気付き「ん?」と言って、新聞紙の束の中から何かを取り出した。

 

木の板。

 

それには「○○○焼死祈願」と、俺のフルネームが彫られていた。

俺は全身に鳥肌が立った。やはり俺の名前を調べ上げていたんだ。もし警察がパトロールしていなかったら…と、少し気が遠くなった。

母は泣きだし、俺を抱き締めて頭を撫で回してきた。

警官はしばらく黙っていたが「実はあの女、少し精神的に病んでまして。○○町にすんでいるんですけど、結構苦情、まぁ同情の声というのもあるんですがねぇ」と語りだした。

 

「あの女、一年前に交通事故で主人と旦那を亡くしてまして。それ以来、情緒不安定と精神分裂症というか、まぁ近所との揉め事なども出てきましてね。実は山で発見された少女の写真であの女の特定は出来ていたんですよ。二年前の交通事故、あの少女が道路に飛び出したのを避けようとして、ハンドルを切った際に壁に衝突して主人と息子が無くなったんですよ。飛び出した少女は無傷で助かったんですが」

 

警官はなおも続ける。

 

「以来、あの少女の家にも散々嫌がらせをしているんですよ。ただ、事故が事故なだけに少女の家からは被害届けはでてないんですが、あの少女を相当怨んでいるんでしょうね」

 

警官は中年女の素性を一通り語ったが、俺はその話を聞いても、同情などは一切出来なかった。むしろ中年女の執念深さがヒシヒシ と伝わってきた。

何よりも警官も認める情緒不安定、精神分裂症では、すぐに釈放になってしまうのではないのか?

その後、俺はまた中年女の存在に怯え生きていかなければならないのか?

警官の話を聞き、安堵感よりも絶望感が心に広がった。

 

 

それから五年。

 

 

俺、慎、淳はそれぞれ違う高校に進学していた。

俺たちはすっかり会うことも無くなり、それぞれ別の人生を歩んでいた。

もちろん中年女事件は忘れることが出来ずにいたが、恐怖心はかなり薄れていた。

そんな高一の冬休み、久しぶりに淳から電話が掛かってきた。

 

「おう! ひさしぶり!」そんな挨拶もほどほどに、淳は「実は単車で事故ってさぁ、足と腰骨折って入院してんだよ」と言った。

 

「え? だっせーな! どこの病院よ? 寂しいから見舞いに来いってか?」と俺は聞いた。

 

「まぁ、それもあるんだけどさぁ。お前、中年女の事って覚えてる?事件の事じゃなくってさぁ。顔、覚えてる?」

 

「何で? 何だよ急に!」俺は思い出したくなかった。

すると淳は、「毎晩、面会時間終わってから変なババァが俺の事を覗きに来るんだよ。ニヤつきながら」と言った。

淳の発した言葉を聞いたとたんに中年女の顔を鮮明に思い出してしまった。

始めて出会った夜の歯を食いしばった顔、下校時に出会ったいやらしいニヤついた顔、自宅玄関で見た狂ったような叫び顔、それらは、忘れる努力をしていたが決して忘れることの出来ないトラウマだった。

俺は淳に「何言ってんだよ! もう忘れろ! ほんっとオメーって気が小せぇーなぁ!」と答えた。自分自身にも言い聞かせるように。

淳は「そーだよな。いや、こーゆーとこって妙に気が小さくなるんだよ!」と言った。

俺は「そういうところ、変わってねぇな!」と余裕を見せた。俺自信もあの日のまま成長していないが。

そして、入院している病院を聞き、「近いうちに土産でも持って見舞いに行くよ」と言って電話を切った。

電話を切った瞬間、何故か胸騒ぎがした。

 

 

中年女……

 

 

淳の言葉が妙に気に掛かりだした。

電話を切った後、しばらく考えた。まさか、今更中年女が現れるはずが無い。それにあいつは捕まったはず。いや、もう釈放されたのか?

というか、今思えば俺たち三人は中年女に何をしたわけでも無い。ただ中年女の呪いの儀式を見てしまっただけなのに、こちらの払った代償はあまりにも大きい。

偶然、夜の山で出会い、いきなり襲われた。俺たちは何一つ中年女から奪っていない。それどころか、傷付けてもいない。

中年女は俺たちからハッピーとタッチを奪い、秘密基地を壊し、何より俺たち三人に恐怖を植え付けた。

中年女がいくら執念深いといっても、さすがにもう俺たちに関わってくるとは思えない。こんなことを思うのも何だが、怨むなら「写真の少女」にベクトルが向くはずだ。

俺は強引に俺自身を納得させた。

 

 

二日後、俺はバイトを休み、本屋でマンガを三冊買ってから淳の入院している病院に向かった。

久しぶりに淳に会うというドキドキ感と、淳が電話で言っていた事に対するドキドキ感で、複雑な心境だった。

病院に着いたのは昼過ぎだった。

淳の病室は三階。俺は淳のネームプレートを探し出した。

303号室

六人部屋に淳の名前があった。一番奥、窓側の向かって左手に淳の姿が見えた。

 

「よう淳、久しぶり!」

 

「おう! マジひさしぶりやなぁ!」

 

思ったより全然元気な淳を見て少し安心した。

約束の土産を渡すと、淳は新しい玩具を与えられた子供の如く喜んだ。

そして他愛も無い話を色々した。淳といると小学生のころに戻ったようでとても楽しかった。無邪気に笑えた。あっという間に時間は経ち、面会終了時間が近ずいてきた。

俺が「じゃあ、もうそろそろ」と帰りを切り出そうとしたとき。

 

「実はさぁ、電話でも言ったんだけど」と淳が真顔で俺の方を見た。

 

「中年女の事だろ?」と俺は言った。

 

すると淳は「気のせいだとは思うんだけど、いつもこの時間に来るオバさんがいてさぁ。何か、こう、引っ掛かるっつーか」と言った。

俺は「だから気のせいだって! ビクビクすんなよ!」と強気な発言をした。

淳は少しカチンと来たのか「だから勘違いかもしんねーっつってんじゃん! ビビりで悪かったな!」と言い返してきた。

 

空気が少し重くなった。

俺は、淳に謝ろうとした。

そのとき。

ガラガラガラ……

廊下に台車のタイヤ音が響いた。

淳が来た、とつぶやく。

俺は視線を部屋の入口に向けた。

ガラガラガラ……

台車は扉の前に止まったようだ。

そして、扉が開いた。

そこには上下紺色の作業着を着たオバさんが居た。

俺は「何だよ脅かすなよ! ゴミ回収のオバさんじゃねーか」と、少し胸を撫で降ろした。

そのオバさんは、患者個人個人のごみ箱のゴミを回収して回り、最後に淳のベットに近づいてきた。

淳が小声で「見てくれよ!」と言った。

俺は反射的に一瞬そのオバさんの顔を見た。

 

「……!」

 

俺は息を飲んだ。

似ている……いや、中年女なのか?

俺は目が点になり、しばらく、その人を眺めていると、そのオバさんはこちらを向き、ペコリと頭を下げて部屋を出て行ってしまった。

「どう? やっぱ違うか? 俺ってビビりすぎ?」と淳が聞いてきた。

俺は全然ちげーよ、ただの掃除オバさんじゃん、と答えたが、実際は混乱していたのを必死に隠していた。

 

「じゃあそろそろ帰るわ! あんま変な事考えてねーで、さっさと退院しろよ!」と俺が言うと、淳は「そうだな。あの女が病院にいるわけねーよな。お前が違うって言うの聞いて安心したよ。また来てくれよ! 暇だし!」と元気よく言った。

 

俺は病室を出ると、足早に階段を駆け降りた。頭の中からさっきの「オバさん」の顔が離れない。中年女の顔は鮮明に覚えている。

しかし、中年女の一番の特徴といえば 「イッちゃってる感」だ。さっきのオバさんは穏やかな表情だった。

もし、さっきの「清掃のオバさん」=「中年女」なら、俺の顔を見た瞬間にでも奇声をあげ、襲い掛かって来てもおかしくはない。

そうだ。やっぱり他人の空似なんだ。と考えつつ、なぜが病院にいるのが怖くなり、早々に家路についた。

 

 

家に帰ってからも「清掃のオバさん」=「中年女」の考えは払拭しきれなかった。

やはり気になる。その日は眠りに落ちるまでその事ばかり考えていた。

次の日、「清掃のオバさん」の事が気になり、俺はバイトを早めに切り上げて病院へ行くことにした。

俺のバイト先からチャリで三十分。病院に着いたときには二十時を回っていて面会時間も過ぎていた。

もう、「清掃のオバさん」も帰っている事は明白だったが、臨時入口から病院に入り、とりあえず淳の病室に向かった。

こっそり淳の病室に入ると淳のベットはカーテンを閉めきってあった。

「寝たのか?」と思い、そっとカーテンを開けて隙間から中を覗いた。

 

「うわっ!」

 

淳が慌てて飛び起き「ビックリさせんなよ!」と言いながら体を起こした。

俺は「暇だろうと思って来てやったんだよ!」と淳の肩を叩いた。

「おぅ! この時間暇なんだよ! ロビーでも行って茶でもしよか?」と淳は言った。

俺は車椅子をベットの横に持って来て、淳の両脇を抱え、淳を車椅子に乗せてやった。

淳が「ロビーは一階だからナースに見つからんよーに行かんとな」と小声で言った。

俺たちはコソコソと、まるで泥棒の様に一階ロビーに向かった。

途中、何人かのナースに見つかりそうになる度、気配を消し、物陰に隠れ、やっとの思いでロビーに着いた。

昼間と違い、ロビーは真っ暗で、明かりといえば自販機と非常灯の明かりしかない。

淳が「何か暗闇の中をお前とコソコソするの、あの夜を思い出すよなぁ」と言った。

「そだな。何であの時アイツの事を尾行しちまったんだろーな」と俺が言うと淳は黙り込んだ。

俺は今日病院に来た理由、すなわち「清掃のオバさん」の事について、淳に言おうと思ったが、躊躇していた。淳はこの先、一ヵ月近く此処に入院するのに、そのような事を言っていいものか。

またあの時のように「原因不明の蕁麻疹」が出るかもしれない。

すると淳が「お前、あのオバさんの事できたんじゃないのか?」と聞いてきた。

俺はとっさに「え? 何が?」ととぼけたが、淳は「そうなんだろ? やっぱり似てる、いや、中年女かもしれないんだろ?」と真顔で詰め寄って来た。

俺はその淳の迫力に押され「たしかに似てた。雰囲気は全然違うけど、似てる」と答えた。

淳はうつむき「やっぱり。前にも電話で言ったけど」と語り始めた。

淳は少し声のトーンを下げた。

 

「俺が入院して二日目の夜、足と腰が痛くて痛くてなかなか眠れなかったんだ。寝返りもうてないし、消灯時間だったし、仕方ないから、目つむって寝る努力をしていたんだ」

 

「そして少し睡魔が襲ってきてうとうとし始めたとき、視線を感じたんだ。見回りの看護婦だろうと思って無視してたんだけど、なんか、ハァ……ハァ……って息遣いが聞こえてきて、何だろう、隣の患者の寝息かな、って思って薄目を開けてみたんだよ」

 

「そしたら俺のベットカーテンが三センチくらい開いてて、その隙間から誰かが俺を見ていたんだ。その目は明らかに俺を見てニヤついてる目だったんだ。俺、恐くて恐くて、寝たふりしてたんだけど。そして、そのまま寝てたらしく、気付いたら朝だったんだ」

 

「後から考えたんだ。あのニヤついた目、どこかで見覚えがあるんだよ。そうなんだよ! 清掃のオバさんの目にそっくりだったんだよ!」

 

ニヤついた目。

俺はその目を知っている。

中年女に、そのニヤついた目付きで見つめられた事のある俺には、淳の言う光景がすぐに浮かんだ。更に淳は話を続けた。

 

「それにあの清掃のオバさん、ゴミ回収に来た時、ふと見ると、何かやたら目が合うんだ。俺がパッと見ると、俺の事をやたら見ているんだ。半ニヤけで」

 

それを聞き、俺が抱いていた疑問、「清掃のオバさん」=「中年女」は確信に変わった。

やっぱりそうなんだ。社会復帰していたんだ!

缶コーヒーを握る手が少し震えた。決して寒いからでは無い。体が反応しているんだ。「あの恐怖」を体が覚えているんだ。

その時、俺の後方から突如、光が照らされた。

 

「コラ!」

 

振り向くと、そこには見回りをしている看護婦が立っていた。

 

「ちょっと淳君! どこにもいないと思ったらこんなとこに! 消灯時間過ぎてから勝手に出歩いちゃダメって言ってるでしょ! それに、お友達も面会時間はとっくに過ぎてるでしょ!」と、かなり怒っていた。

淳は「はいはい。んじゃまた近いうちに来てくれよな!」と看護婦に車椅子を押され病室に戻って行った。

俺は「おぅ! とりあえず、気つけろよ!」と言った。

とりあえず帰るかと思い、入って来た急患用出入口に向かった。

それにしても夜の病院は気味が悪い。さっきまで「あの女」の話をしていたからか、と思って歩いていると、廊下の先に誰かがいることに気が付いた。

 

あれは。

 

清掃のオバさん……

 

いや、中年女か?

 

中年女らしき女が何かしている。

 

間違いない! 中年女だ!

 

この先の出入口付近で何かしている!

 

俺はとっさに身を隠し、中年女の様子を伺った。

どうやら俺には気付かず、何かをしているようだ。中腰の態勢で何かをしている。俺は目を凝らし、しばらく観察を続けた。

何か大きな袋をゴソゴソし、もう一方に小分けしている?尚も中年女はこちらに気付く様子も無く、必死で何かしている。

ひょっとして、病院内の収拾したゴミの分別をしているのか?

その時、後ろから「ちょっと、まだいたの? 私も遊びじゃないんだからいい加減にして!」と、さっきの看護婦が声を掛けてきた。

俺はドキッとし、「あ、いや、帰ります! どーも」と言って、出入口に目をやった。

すると中年女はこちらに気付いたようで、ジィーっとこちらを見ていた。

「全く!」看護婦はそう吐き捨て、再び見回りに行ってしまった。

いや、それどころでは無い! 中年女に見つかってしまった! どうすればいい?

逃げるべきか? 先ほどの看護婦に助けを求めるべきか?

俺の頭はグルグル回転し始め、心臓は勢いを増しながら鼓動した。

俺は中年女から目を離せずにいると、中年女は俺から視線を外し、何事も無かったように再びゴミの分別作業をし始めた。

 

「え!?」

 

俺は躊躇した。その想定外の行動に。俺の頭には「襲い掛かってくる」「俺を見続ける」「俺を見てニヤける」と、相手が俺に関わる動向を見せると思っていたからである。

俺はしばらく突っ立ったまま、中年女を見ていたが、黙々とゴミの分別をしていて、俺のことなど気にしていないようだった。

「何かの作戦か?」と疑ったが、俺の脳裏にもう一つの思考が浮かんだ。

「清掃のオバさん」≠「中年女」

やはり、似ているだけで別人なのか?

俺と淳が疑心暗鬼になりすぎていたのか? やはり中年女とは赤の他人の別人なのか?

そう一人で俺が考えている間も、「その女」は黙々と仕事をしている。

俺は意を決して、出入口に歩き出した。すなわち「その女」の方へ。

少しずつ近づいて行くが、相手は一向にこちらを見る気配が無い。しかし、俺は「その女」から目を離さず歩いた。

あっという間に、何事も無く俺は「その女」の背後まで到達した。女は一生懸命ゴミの分別をしている。手にはゴム手袋をハメて大量のゴミを「燃える」「燃えない」「ペットボトル」に分けていた。

その姿を見て、俺は「やはり別人か」と思っていると、「その女」はバッっとこちらを見て、「大きくなったねぇ〜」と俺に話し掛けてきた。

俺は頭が真っ白になった。

 

「オオキクナッタネェ?」

 

この人は俺の過去を知っているのか? この人、誰だ?

この人……中年女? こいつ、やっぱり中年女か!!

 

その女は作業を中断し、ゴム手袋を外しながら俺に近寄ってくる。その表情はニコニコしていた。

俺はどんな表情をすればいい? きっと、とてつもなく恐怖に引きつった顔をしていただろう。

女は俺の目前まで歩み寄って来て「立派になって。もう幾つになった? 高校生か?」と尋ねてきた。

俺は「この女」の発言の意味が判らなかった。

何なんだ? 俺をコケにしているのか? 恐怖に引きつる俺を馬鹿にしているのか?

何なんだ? 俺の反応を楽しんでいるのか?

俺が黙っていると、「お友達も大きくなったねぇ。淳くん。可哀相に骨折してるけど。お兄ちゃんも気付けなあかんよ!」と言ってきた。

もう、意味が全く解らなかった。数年前、俺たちに何をしたのか忘れているのか? 俺たちに「恐怖のトラウマ」を植え付けた本人の言葉とは思えない。

「女」は尚もニヤニヤしながら「もう一人いた、あの子、元気か? 色黒の子いたやん?」

慎の事だ!

何なんだコイツは! まるで久しぶりに出会った旧友のように。普通じゃない。わざとなのか? 何か目的があってこんな態度を取っているのか?

俺は中年女から目を逸らさず、その動向に注意を払った。こいつ、何言ってるのか解ってるのか?

「あの時はごめんね……許してくれる?」と中年女は言いながら俺に近づいてきた。

俺は返す言葉が見つからず、ただ無言で少し後退りした。

「ほんまやったら、もっと早くあやまらなあかんかってんけど……」

俺は耳を疑った。こいつ、本気で謝罪しているのか?それとも何か企んでいるのか?

ついに中年女は手を伸ばせば届く範囲にまで近づいてきた。

「三人にキチンと謝るつもりやったんやで……ほんまやで……」と言いながら、ますます近づいてくる!

もう息がかかるほどの距離にまで近づいた。「あの時」とは違い、俺の方が身長は二十センチほど高く、体格的にも勿論勝っている。

俺は中年女に指一本でも触れられたら、ブッ飛ばしてやると考えていた。

中年女は俺を見上げるような形で、俺の目を凝視してくる。しかし、その目からは「怨み」「憎しみ」「怒り」など感じられなかった。真っ直ぐに俺の目だけを見てくる。

「あの時はどうかしててねぇ、酷い事したねぇー」と中年女は謝罪の言葉を並べる。

俺はもう、その場の緊張感に耐えられず、ついに走りだし、その場を去った。

走ってる途中、「もし追い掛けられたら」と後ろを振り向いたが中年女の姿は無く、ある意味拍子抜けした。

走るのを止め、立ち止まり、考えた。さっきのは本当に本心から謝っていたのか?

俺は中年女を信じることが出来なかった。疑う事しか出来なかった。まぁ、「あの事件」の事があるから当たり前だが。

俺は小走りで先ほどの場所近くに戻ってみた。そこには再びゴム手袋をはめ、大量のゴミの分別をする中年女の姿があった。

こいつ本当に改心したのか?

必死に作業をする姿を見ると、昔の中年女とは思えない。

とりあえず、その日はそのまま帰宅した。

 

 

俺は自室のベットに横になり、一人考えた。人間はあそこまで変わることが出来るのか?昔、鬼の形相でハッピーとタッチを殺し、俺を、慎を、淳を追い詰め、放火までしようとした奴が。

「ごめんね」など、心から償いの言葉を発することが出来るのか。

いや、ひょっとして「あの事件」をきっかけに俺が変わってしまったのか?

疑心暗鬼になり、他人を信じる事が出来ない冷たい人間になってしまったのか?

中年女の謝罪の言葉を信じることで「あの事件」の精神的な呪縛から解放されるのか?

もう一度、中年女に会い、直接話すべきだ。

俺は中年女にもう一度会うこと、今度は逃げないこと、と決意を固め、その日は就寝した。

 

 

そして次の日、俺はバイトを休み、病院に行った。

まずは淳の病室に入り、昨日の出来事を説明した。そして今日は、中年女に会い、直接話してみるつもりだ。と言う事を伝えた。

淳は最初、中年女は変わっていない! と俺の意見に反対だったが、「このまま一生、中年女の存在に怯え、トラウマを抱えたまま生きていくのか?」と俺が言うと、「中年女に会って話すんだったら俺も付き合う」と言ってくれた。

 

しばらく沈黙が続いた。

 

刻々と時間は過ぎ、面会時間終了のチャイムが鳴ると同時に、廊下の奥の方からゴミ運搬台車の音が聞こえてきた。

 

ガラガラガラ……

 

「……来たな」

 

淳がボソッと呟いた。

俺は固唾を飲んで部屋の扉へ視線を送った。

 

ガラガラガラ……

 

台車の音が部屋の前で止まった。

部屋の扉が開いた。

作業服の中年女が会釈しながら入室してきた。俺と淳はその姿を目で追った。

中年女は奥のベットから順にゴミ箱のゴミを回収し始めた。

「ごくろうさん」と患者から声を掛けられ、笑顔で会釈をする中年女。とても昔の中年女と同一人物とは思えない。

そして、ついに淳のベットのゴミ回収に中年女がやってきた。

中年女はこちらに一切目を合わせず、軽く会釈をし、ゴミを回収し始めた。俺は何と声を掛けていいのかわからず、しばらく中年女の様子を伺っていた。

すると、淳が「おばさん、どーゆーつもりだよ?」と切り出した。

中年女はピタッと作業の手を止め、俯いたまま静止した。

淳は続けて「あんた、俺の事覚えてたんだろ? 俺には謝罪の言葉一つも無いの?」

俺はドキドキした。まさか淳が急にキレ口調で話すなんて予想外だった。

中年女は俯いたまま「……ごめんねぇ」とか細い声を出した。

淳はその素直な返答に驚いたのか、キョトンとした目で俺を見て来た。

俺は「……おばさん。本当に反省してるんだよね?」と聞いてみた。

すると中年女はこちらを向き「本当にごめんなさい。私があんな事したから、淳君こんな事故に合っちゃって。私があんな事したから。ほんとゴメンね」と。

俺と淳は更にキョトンとした。何か話がズレてないか?

俺は「いや、昔あんた犬に酷い事したり、俺ん家にきたり、すべてひっくるめて!」と言った。

中年女は「本当にごめんなさい! 私が、私があんな事さえしなければ、こんな事故、ごめんね! 本当にごめんね!」と泣きそうな声で言った。

その態度、会話を聞いていた病室内の患者の視線が一斉にこちらに注目していた。

静まり返った病室に「ゴメンね! ごめんなさい! ゴメンなさぃぃ!」と中年女の声だけが響いた。

淳は少し恥ずかしそうに「もういいよ! だいたい、俺が事故ったのはアンタと一切関係ねーよ!」と吐き捨てた。

中年女はペコペコ頭を下げながら淳のベットのゴミを回収し、最後に「ごめんなさい」と言い、そそくさと病室から出て行った。

その光景を周りの患者が見ていたので、しばらく病室は変な空気が流れた。

淳は「何なんだよ! あのオバハン! 俺は普通に事故っただけだっつーの。何勘違いしてやがんだよ!」といいながら枕をドツイた。

俺は中年女の行動、言動を聞いていてハッキリと思った。

やはり中年女は少しおかしい。いや、謝罪は心からしているのだろうが、アイツは「呪いの儀式」を行った事を謝っていた。「呪い」を本気で信じているようだった。

淳は「あのころは無茶苦茶怖い存在やって、今だにトラウマでビビってたけど、さっき喋って思ったんは、単なるオカルト信者のオバはんやって事やな!」と何処かしら憑き物が取れたと言うか、清々しい表情で言った。

俺は「あぁ、昔と違って俺らの方が体もデカくなったしな!」と調子を合わせた。

 

「さて、とりあえず一件落着したし、俺帰るわ!」

 

「おぅ!また暇な時来てや!」

 

と言葉を交わし、俺は病室を出て家路に就いた。

家に帰る途中、俺は慎の事を思い出した。アイツにもこの事を伝えてやろうと。アイツも今回の話を聞かせてやれば、きっと「あの日のトラウマ」が無くなるのでは無いか、と。

 

家に帰り早速、慎と同じサッカー部だった奴に電話をかけ、慎の携帯番号を聞いた。そして慎の携帯に電話を掛けた。

 

「おう!ひさしぶり!」なつかしい慎の声。

 

俺は慎と「最近どうよ?」的な話をした後、淳が事故って入院したこと、その病院に中年女が 清掃員として働いていること、中年女が昔と別人のように心を入れ替えている事を話した。

慎は中年女が謝罪してきたことに対し、たいそう驚いていた。そして最後に慎は「淳が退院したら三人で快気祝いをシヨウ」と言った。

もちろん俺は賛成し、淳の退院のメドが着き次第連絡する。と伝えた。

その翌日、俺は病院に行き淳に「慎がおまえの退院が決まり次第、こっちに帰って来て快気祝いしようってよ!」と伝えた。

淳はたいそう喜んでいた。

 

 

それから一週間ほど、病院に見舞いには行っていなかった。別に理由は無いが、新学期も始まり、なかなか行く時間が無かったというのもある。

それに中年女が更正(?)しているようだったので、心配も、以前ほどはしていなかった。何かあれば淳から電話があるだろうと思っていた。そんなある日、淳から電話が掛かってきた。

内容は「来週退院する」との事だった。

俺は「良かったな!」と祝福の言葉と共に、中年女の動向を聞いたが、「普通にゴミ回収の仕事をしている。特に何もない」との事だった。

そして、さらに一週間が経ち、淳は退院した。

俺は学校帰りに淳の家に立ち寄った。チャイムを押すと、松葉杖をつきながら淳が出てきた。

 

「おぅ! 上がれよ!」

 

足にはギブスをはめたままだったが、すっかり元気そうだった。淳の部屋でしばし雑談をした。

夕方になり俺は帰宅し、夕飯を喰った後、慎に電話をした。

 

「淳、退院したぜ!」

 

「マジ! そっか、じゃあ快気祝いしなくちゃな! すぐにでも行きたいけど部活が忙しいから月末あたりにそっち行くよ!」との事だった。

 

 

そして月末の土曜日。

俺、慎、淳。小学校以来、久しぶりの三人での再会だった。昼に駅前のマクドで落ち合った。

久しぶりに会った慎は冬なのに浅黒く日焼けし、少しギャル男気味だった。まぁ、それはさておき、夕方まで色々と語った。それぞれの高校の話。恋の話。昔の思い出話。

もちろん中年女の話題も出てきた。あの時それぞれが何よりも恐ろしく感じていた中年女も、今となればゴミ回収のおばさん。

病院での出来事を俺と淳が慎に詳しく話してやると、慎は「あのころと違って、今ならアイツが襲って来てもブッ飛ばせるしな!」と笑いとばした。

もう俺たちにとって中年女は過去の人物、遠い昔話で、トラウマでも無くなっていた。

 

夕方になり、俺たちはカラオケボックスに行った。

久しぶりの三人での再会と言うこともあり、俺たちは再会を祝して酒を注文した。まぁ酒と言っても酎ハイだが、当時の俺たちは充分に酔えた。

それぞれ四、五杯ぐらい飲み、みんなほろ酔いだった。いい気分で歌を歌い、かなりハイテンションだった。

そして二時間経ち、歌にも飽き出した時、慎がある提案をした。

「よーし、今から秘密基地に行くぞ!あの時、見捨てちまったハッピーとタッチの供養をしに行くぞ!」と。

一瞬、空気が凍った。俺も淳も言葉を失った。まさか、「あの場所」に行こうなんて。予想外の発言だったからだ。

慎はそんな俺たちを挑発するように「オメーら変わってねーな! まぢでビビっんの? ハハッ!」と、少し悪酔いしていた。その言葉に酔っ払い淳が反応し、「あ? 誰がビビるかよ! 喧嘩売ってんのか慎?」とキレ出した。

俺は酔いながらも空気を読み「おいおい、やめとけって! 第一、淳まだ杖突いてんだぜ?」と言うと、慎がすかさず「あ、そっか、杖ツイてちゃ逃げれねーしなハハハ!」と、かなり悪酔いしていた。

淳はますますムキになり「うるせーよ! 行きてーんなら行ってやるよ!お前こそ途中でビビんぢゃねーぞ?」と、まるで子供の喧嘩のようになり、結局、「ハッピーとタッチの冥福を祈りに」と言う名目で行くことになった。

慎、淳は二人とも結構酔っていたのと、引くに引けなかったんだと思う。

まぁ、「ハッピーとタッチの供養」はいずれしなければならないと思っていたので、いい機会かも、と少し思った。三人なら恐さも薄れるし。

カラオケボックスを出て、コンビニに寄り、あの二匹が大好きだった「うまい棒」と「コーラ」を買い込み、タクシーで一旦俺の家に寄り、照明道具を取って来てから「小学校の裏山」へ向かった。

タクシー運転手に怪しげな目で見られつつ、山の入口でタクシーを降りた。俺は三人でよく遊んだ裏山という懐かしさと共に「あの日」の出来事を思い出した。

こんな夜更けに、また入ることになるとは……そんな俺の気持ちも知らずに淳は意気揚々と「さぁ、入ろうぜ!」と、杖を突きながらズカズカと入っていく。その後ろをニヤニヤしながら慎が明かりを燈しながら着いて行った。

俺は「淳、足元、気つけろよ!」と言い、慎に続いた。

いざ山に入ると、昔と景色が変わっていることに驚いた。いや、景色が変わったのでは無く、俺たちがデカくなったから景色が変わって見えていたのかもしれない。

登山途中、慎が淳をからかうように「中年女がいたらどーする?俺、お前置いて逃げるけど!」など、冗談ばかり言っていた。思いの外、スムーズに進め、三十分ほどで「あの場所」に到達した。

 

「あの場所」

 

初めて「中年女」と会った場所。

 

俺たちは黙り込み、ゆっくりと明かりを燈しながら「あの樹」に近づいた。「あの日」中年女が呪いの儀式をしていた樹。間近に寄り、明かりを燈した。

今は何も打ち込まれておらず、普通の大木になっていた。しかし、古い「釘痕」は残っていた。所々、穴が開いていた。恐らく、警察がすべて抜いたのだろう。

しばらく三人で釘痕を眺めていた。そして慎が「ここらへんでハッピーが死んでたんだよな……」と地面を照らした。さすがにもう、ハッピーの遺体は無かったが、ハッキリとその場所は覚えている。

俺はその場に「うまい棒」と「コーラ」を供えた。そして三人で手を合わせ、次は「タッチ」の元へ向かった。

 

「秘密基地跡」だ。

 

秘密基地に向かう途中、淳が「色々あったけど、やっぱ懐かしいよな」とポツリと言った。

すると慎が「あぁ、あの夜、秘密基地に泊まりに来なければ、嫌な思い出なんて無かっただろうな」と言った。

確かに。この山で中年女に会わなければ、ここは俺たちにとっては聖地だったはずだった。

「ここらへんだったよな」慎が立ち止まった。

 

「秘密基地跡地」

 

もう跡形も無かった。あの日バラバラにされていた材木すら一枚も無かった。

淳が無言でしゃがみ込み、「うまい棒」と「コーラ」を置き、手を合わせた。俺と慎も手を合わせた。

しばらく黙祷したのち、慎が言った。

 

「ハッピーとタッチがいなけりゃ、今ごろ俺たちいなかったかもな」

 

「あぁ」と淳が言った。

 

俺も「そうだよな…結局、中年女も更正して、なんだか、やっと悪夢から解放された感じだな」と言った。

 

しばらく沈黙が続いた。

 

ふと慎が周囲や目の前の池を電灯で照らし、「この場所、あのころは俺らだけの秘密の場所だったのに、結構来てる奴いるみたいだな」と言った。

慎が燈す場所を見ると、スナック菓子の袋や空き缶が結構落ちていることに気付いた。

俺は「ほんとだな、あのころはゴミなんて全然無かったもんな。今の小学生、この場所しってんのかな?」と言った。

淳が続けて「あの時は俺ら、まじめにゴミは持ち帰ってたもんな」と言った。

 

その時、慎が「うわっ!何だこれ!」と叫んだ。

 

俺と淳は、その声に驚き、慎の照らす明かりの先に視線をやった。

一本の木に何やらゴミが張り付いている。よく見ると無数の菓子袋や空き缶、雑誌が木に釘で打ち付けられていた。

 

「なんだこれ!?」

 

慎が明かりを照らしながら近づいていった。俺と淳も後を着いて行った。

 

「誰かのイタズラか?」

 

俺は打ち付けられたゴミをまじまじと見た。

その時。

 

「あぁぁぁ、これ……俺の……ゴミぃぃぃぁぁぁあ」と淳が震えた声で言いながら硬直した。

 

「は?」俺と慎は聞き直した。

淳は「あぁぁぁ、俺が……病院で……捨てた……あぁぁ……」と言いながら後ずさりした。

慎が「おい淳! しっかりしろ! んなわけねーだろ!」と怒鳴りながら、釘で打たれた一枚の菓子袋を引きちぎった。

それを見て、淳は「あー、ぁあぁ……」と奇妙な声を出し、尻餅を付いた。

その行動に俺と慎は呆気に取られた。

次の瞬間、「うわっ!」と、慎が手に持っていた袋を投げた。

「え?!」と俺がその袋に目をやると、袋の裏にマジックで見覚えのある文字が書かれていた。

 

 

「淳呪殺」

 

 

俺は「まさか?」と思い、木に釘打たれたゴミを片っ端から引き剥がし、裏を見た。

 

 

「淳呪殺」「淳呪殺」「淳呪殺」

「淳呪殺」「淳呪殺」「淳呪殺」

 

 

すべてのゴミに書かれていた。

淳は口をパクパクさせながら尻餅を付いた状態で固まっていた。

慎が何気に周囲に落ちていたゴミを拾い、「おい!、これ!」と俺に見せてきた。

 

 

「淳呪殺」

 

 

なんと、周囲に落ちているゴミにも書かれていた。

俺はその時、初めて気付いた。

中年女は初めから更正なんてしていなかったんだ。ずっと俺たちを怨んでいたんだ。俺が病院で見掛けた、ゴム手袋をして必死で分別していたのも、淳のゴミだけを分けていたんだ!俺たちに「ごめんね」と言っていたのも全部嘘だったんだ。

俺は急にとてつもなく寒気を感じ「ここにいてはいけない」と本能的に思った。

「おい! しっかりしろ! 行くぞ!」と淳に言ったが、淳は「俺の……ゴミ……俺のゴミ……」と空言を言って壊れていた。

とりあえず慎と俺で淳を担ぎ、山を降りた。

 

 

あれから八年。

 

 

あの日以来、もちろん山には行っていない。中年女とも会っていない。

まだ俺たちを怨んでいるのだろうか?

どこかで見られているのだろうか?

しかし、俺たち三人は生きている。

ただ、今だに淳は歩く事が出来ない。

 

 

 

暗闇から見つめる視線

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