世界の七不思議その5 ハリカルナッソスのマウソロス霊廟

紀元前4世紀の中ごろ、小アジアのカリア地方を治めていたマウソロスは、父の後を継いで小アジアの南西部の全域を手中に収めようとしていました。

彼は富と力を維持し、24年にわたって周辺地域を支配することとなります。

彼はギリシアの生活や政治に憧れ、ギリシア語を話したといいます。いつかギリシアの海岸沿いに造られた諸都市のように、民主主義の伝統を推奨する、優れた難攻不落の首都を建設しようと心に決めていました。

この首都に選ばれたのがハリカルナッソスです。

マウソロスは、ハリカルナッソスを要塞都市に仕立てていきました。湾を深く掘り、港を構築し、城壁を築いて防御を固めたといいます。そして、内部には市民のために広場や道路を整備し、神殿や劇場まで造ったそうです。

マウソロスは領土拡大のために積極的に前線に立ちますが、死因は不明とされています。

彼の死後、紀元前353年にこの功績をたたえて妻のアルテミシアは、感謝の意を示すために当時の世界で最も美しい墓を造ることを決心しました。

これが、マウソロスの霊廟(れいびょう)です。

霊廟はハリカルナッソスの街を一望する丘の上に建てられました。土台となる大理石は巨大な四角で、その中央にまず墓本体となる石壇が置かれました。それぞれの四隅にはギリシャ人とアマゾンの戦いを描いた彫刻帯が飾られ、2階部分は円柱が36本のイオニア式円柱が立ち並び、円柱と円柱の間に男神と女神の立像が飾られました。

円柱の上に台輪が乗せられ、そこから急傾斜の高い24段のピラミッドが組み立てられ、その頂上には大理石造りの4頭立ての二輪馬車と、マウソロス王とアルテミシア女王の彫像が飾られました。

高さ42m、周囲123mにもなる外観で、しかも純白の大理石だけを使っていたことから、霊廟というよりもギリシャ神殿を思わせるものだったそうです。

これだけの建築物を完成させるには、費用も技術も相当なものが掛かります。アルテミシアは何も惜しまずに費用を出し、当時最も優れた建築家と芸術家を、わざわざギリシャから連れてきてまで、この実現を希望しました。

しかし、建設を開始した直後、征服地であるロドス島からマウソロスの死を知った反乱軍が襲ってきます。アルテミシアは自分の軍隊を率いて果敢に反撃しました。港で反乱軍を迎撃すると、機転を利かせて自らの軍を敵船に乗せてロドス島へ向かわせ、自分たちの海軍が勝利して帰ってきたと勘違いしたロドス人たちを、鎮圧したそうです。

そんなアルテミシアも、マウソロスの死から2年後に亡くなります。依頼主が亡くなってからも建設が中断しなかたのは、この霊廟が自分たちの栄光と手腕の記念になると考えたからです。