きゅっきゅ

ある日、マユミという女の子が学校へ向かって歩いていました。

ごく普通の朝でした。いつも通りの道を、いつも通りの時間帯に歩いています。

見慣れた景色を見るともなく進みながら、車通りの多い道を避けて、一本裏の路地へ入りました。

その時、ふいに視線の先に同じ学校の制服を着た子の姿が見えました。

近づいていくと、それは同じクラスでいじめられている同級生のA子でした。

彼女はクラス全員から無視されていて、陰湿な嫌がらせや直接的な加害に参加する生徒もいました。

先生もいじめの存在を知りながら、見て見ぬふりをしていました。事を荒立てるのが嫌なのか、単なる子供の遊びだとでも思っていたのでしょうか。

マユミたちの学校は私立の女子校でした。

もし周りの空気を読まずに、自分だけ違う行動を取れば、次のいじめのターゲットになってしまうかもしれません。

そのため、マユミは傍観に徹してやり過ごすことに決めていました。

正直、A子がどんな性格なのか詳しく知らないし、なぜいじめられているのかも深く考えていませんでした。

とにかく、マユミは彼女のことが嫌いだったわけではなく、なんとなく周りの空気に飲まれて、嫌いになっているような感覚でいたのです。

距離が少しずつ近づいていくと、マユミは何かがおかしいと違和感を覚えました。

A子も学校に行くはずなのに、一歩もそこから進んでいないのです。

しかも、何か独り言を呟いているような声が聞こえてきました。

マユミはA子を追い越そうとして、背後に近づきました。そして、隣に並ぶ位置まで来てA子の横顔を覗き見ました。

A子はとても嬉しそうな顔で鼻歌を歌っていました。

よく聞くと、軽快に「きゅっきゅっ」と繰り返してるのが分かりました。

マユミはその姿を見て、ふいに足を止めました。何故か不思議な魅力がそこにあったからです。

A子はマユミの存在を気にすることなく鼻歌を続けていました。何かのリズムを取っているかのように、体を揺らしています。

「何をしているの?」とマユミは尋ねてみました。

しかしA子は、その呼びかけを無視して「きゅっきゅっきゅっ」と繰り返しています。

マユミは、とても幸せそうにしているA子が不思議でなりませんでした。それと同時に、どうしても知りたいという欲求を自覚しました。

「ねえ、何やってるの?」とマユミは再び尋ねました。

A子はさっきよりも大きく体を揺らし始め、縦に飛び跳ねるようになりました。

 

「きゅっきゅっきゅっ」

 

マユミは自分が無視されていることを急に腹ただしく感じました。自分を無視して一人だけ幸せそうにしているA子が、急に憎たらしく感じました。

「ねえ、ちょっと聞いてんの? なんでそんなことしてんの?」

マユミはふと足元に目をやって、A子がマンホールの上で飛び跳ねているのを知りました。

ひょっとしたらマンホールの上で数字を言いながら飛び跳ねると楽しいのかな――

マユミは一瞬、自分が大真面目に馬鹿なことを考えていると思いました。何を考えているんだろう、と頭を振ってA子の様子を見ると、彼女はとても幸せそうな顔で体を揺らしています。

 

「きゅっきゅっきゅっ」

 

「おい無視すんな! お前わたしのこと馬鹿にしてんの?」

マユミはA子の邪魔をしたくなりました。こんな奴はいじめられても仕方がないと思いました。自分がマンホールの上に立って飛び跳ねれば、こいつの幸せそうな顔を奪えるかもしれないと思いました。

「ちょっとどいて、邪魔!」

マユミはA子の肩を強引に押して道端に追いやりました。A子の顔は見えませんでした。素直にどいたというよりも、よろめいて移動したように見えました。

マユミはマンホールの上に立って誇らしげにA子の顔を見ました。

A子は微笑んでいるような、半笑いのような表情で、直立したまま正面を向いてマユミを見ています。

マユミは腹が立つと同時に、A子に見せてやりたいと思いました。

「こうやればいいんでしょ。私だって」

膝を曲げてバッグが落ちないように肩の紐をつかんで、マユミは飛びました。

足がマンホールについた時に「きゅっ」と言えばきっと楽しいと思いました。

 

次の瞬間、A子が物凄い形相で突然ガニ股で歩み寄り、マンホールの蓋に手をかけて、渾身の力で引きました。

 

マユミの体は、まっすぐマンホールの底へ落ちていきました。その時の顔も声も誰も知ることはありませんでした。

なぜならA子が即座に蓋を戻して、その上に立ったからです。

A子はとても幸せそうな顔で、また鼻歌を歌い始めました。

 

「じゅっ、じゅっ、じゅう」

 

 

暗闇から見つめる視線

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